部分最適と全体不最適(改版1)

営業部隊が「マインドを理解しない。」というのが口癖になっていた社長がいた。いくら話を聞いても何が“マインド”なのか分からなかった。新興宗教の人で仕事では極端に口数が少ないのに宗教がらみのこととなると人が変わったように流暢で多弁になる。口数は驚くほど多くなるが、何を言わんとしているのか分からないことでは、何も変わるところがなかった。
運も実力のうちという言い草がある。そういう人や会社もあるだろうが、そうではない人も会社もあることを日々実感させられた。業界の黎明期に創業して、あれよあれよといううちにそれなりの事業規模になってしまった。なってしまったのはいいが、創業時と同じ体制のままで多くの組織が機能障害に陥っていた。市場要求も変わっていたし、後発の同業も力をつけてきた。将来のオペレーションをどうのこうのではなく、今日の課題をどうにかするにも組織が機能せず足元に火がついていた。
業界の黎明期には顧客に製品を提供するだけでは製品を受け入れてもらえなかった。大手の客ですら製品の使い方−ノウハウの蓄積がなった。そのため製品を売るには、製品の使い方−アプリケーションエンジアリングも含めたコンサルティングから始めなければならなかった。ただ、製品の使い方と言っても経験則の寄せ集め、その寄せ集めを多少格好を付けて整理したものででしかない。分かってしまえばなんということのないコロンブスの卵のようなもの。大手顧客は、あっという間に彼らの用途に関する経験則を体得した。顧客の特定用途を最もよく知っているのは顧客自身で、こっちのコンサルテーションに価値がなくなっていった。
製品の販売価格にはコンサルテーション費も含まれていたから、コンサルテーションを必要としない客−その多くは大口客には“不当”に高いものになっていた。対価として支払うべきは製品のみでそれ以外は不要な客に、何のコンサルテーションもなしでコンサルテーション代金を請求していた。当然のこととして大口客から同業に侵食されていた。
一日も早く価格体系を整理して、コンサルテーションも提供するケースと製品だけ提供するケースに対応した営業体制にしなければならなかった。
社長とは機会ある度に視点は違っても根本的には同じ内容の話を繰り返していた。いくら説明しても分かる気がないのか、分かる知能がないのか分からないがオペレーションの根幹に関わる改善をしようとはしない。そこには今あるもの、おそらくそれまで経験してきた会社組織と似たような組織しか考えられない能力の限界があったのだろう。今日のありようから次のありよう、その次のありようを作り上げてゆく経験も知識もなかった。全体像を思い描き、三年後、五年後にはこうありたい、こうあらざるを得ないというVisionなぞあろうはずもなかった。
営業部隊のトップは高度成長期の残渣のような人で営業マンには頻繁な顧客訪問と自らの楽しみの接待が営業の全てと思っていた。社長と営業部隊のトップ、難しい問題に簡単な答えでお互い納得する似たもの同士。営業マンがいくらいても足りない。売上が明らかな長期低落を示しているなかで営業とその周辺の部隊への人員増強が繰り返され、頭数だけはいる営業部隊ができあがった。
Visionのないところから戦略と呼べる戦略がでてくるはずもなく、営業マンは客に行けという大号令。営業体制の改革には触れずに、次々と数人で構成した周辺部隊が作られていった。営業推進課、営業企画課、市場開拓課、マーケティング。。。日英ごちゃごちゃになりながら組織図上に似たような名前の組織がいくつも並んでいた。似たような部隊が多すぎて部隊間の分掌も関係も分からない。
売上が落ちた、なんとかしたいという思いは分かる。その状態を引き起こしている原因が何かをできるだけ詳細に把握して、その原因を取り除く、軽減する、あるいは相殺する方法なり、対策なりを考え出さなければならないのだが、そこに考えが至らない。問題とその原因には手を触れずに周囲を弄り回して何の効果があるわけもない。組織間の連携もなにもない。あるのは機能不全の営業部隊と、何をどうするのか、営業部隊とのかかわり合いをどうするのか居場所のない、いる必要のない周辺部隊。
本質的な改善に向け全体像を見る能力のない人たち、全体像のVisionを描けない人たちが決まって犯す誤りがある。本質を避け、手を付け易いところから改善という名の作業を始める。こっちの一部分、あっちの一部分、たとえその一部分が機能したとしても全体との関わりあいを最初からきちんと規定しておかなければ、起きることはよくて部分最適。その部分最適、どのようにしたところで全体の最適は至らない。それどころかどの部分最適も必ず外部不経済を伴う。手を付け易いところからというだけで、あっちの部分最適、こっちの部分最適を進めたら何が起きるか。あちこちで部分最適が進んで行くと、それぞれの部分最適が生み出す外部不経済のおかげで全体としてはもう一歩不最適に落ち込む。
全体をどうしてゆきたいのかというVisionのないところで生まれる部分最適、そのままゆけば全体の機能不全を悪化させることはあっても改善することなどありえようがない、エライさんが作ったがん細胞のような気がする。
2015/3/6