丸呑みにする

人と話しをするとき、全く同じではないにしても、お互い似かよった社会観や価値観を持っているものと暗黙のうちに想定している。話しをしているうちに、どうも話が噛み合わないしまとまりそうもない。なぜ噛み合わないのかと思いをめぐらせる余裕があるときはまだいい。しばし話が噛み合わないまま、最後は話の分からないイヤなヤツだという記憶だけが残る。こっちがそう感じているときは、相手も同じように感じていて、お互い反りが合わない人だということになる。個人的な出会いであれば、それまでの出会いで終わりになるが、仕事での出会いになるとイヤなヤツだと思いながら付き合い続けることになる。
それでも仕事上の出会いであれば、まだ救いがある。そこでは個人としての志向、嗜好、立場、利益より所属する企業の立ち位置−利害関係によって人間関係が規定される。仕事の上での利害関係でしかないところからは、同じ日本人同士でも同じ社会観や価値観に根ざした人間関係に発展することは少ない。面白いことに、これが海外とのやり取りなると、仕事の関係ででしかないはずなのに、その背景にある社会や歴史から個人の志向にまで入り込んでしまう。
「常識だろう、常識の範疇だろう」という思いが全く成り立たないケースに遭遇する。こっちが「これは、常識だろうと」思ったところで、「それはあんたの常識であって、こっちの常識ではない」と切り返される。お互いに共通の何かを持っているからこそ話を進められると思い、その共通の何かをちょっと乱暴だが常識で一括りして考えると、話しを進めるための暗黙の前提条件である「常識」ですら唯一無二ではないことを痛感する。
でも、ここまでは驚かない。多少状況に違いはあったにせよあちこちで似たようなことを何度も経験してきた。日本人同士の常識の違いの方が海外の人たちとの常識の違いより大きいのに驚いたことも一度や二度ではない。日本人以上に分かり合える外国人もいれば、いくら話しても分からない日本人も多い。人種や国籍などによる違いではなく個人個人の違い。その人が持っている社会観や人生観、志向や嗜好による違いででしかない。その違いによって発せられる言葉からはっとすることがある。従来からのやり方をひっくり返す、みんなの歴史を否定することをしようとしていると思ってだろう、棘のある語調で非難?されるとなんと対応したものかと苦慮する。みんなのために何とか現状をかえなければ先がないと四苦八苦している傭兵としては立つ瀬がない。
起きてしまっているトラブルを解決しようとするといくつかの作業が必須になる。トラブルが日常業務の範疇のことでも企業として存続にかかわる問題でも、まず起きている現象をバイアスなしの素直な気持ちで理解する。その現象を引き起こしている可能性のある原因をリストアップする。そしてその原因を引き起こしている根本原因を明らかにしようとする。これらの作業の過程で、今の現象が発生するに至った経緯、その経緯に至ったなんらかの理由なり原因なりを把握しようとする。今は詳細に見なければならないが今だけを見ていては今を知りえない。どうしても今に至った経緯を知らなければならない。
今に至るまで関係した人たちに経緯−しばし彼らの都合のいいように編集され改ざんされた−を聞いて回ることになる。組織の文化と人ぞれぞれの性格などがからみあってどこを掘り下げたのかと思うような話がでてくる。荒れたところでは周囲の観客に過ぎない人たちまでが、焼け太りを目論んでのことだろうがトラブルを自分の都合のいいように利用しようとする。それぞれの人が自分に不利になりそうなことは都合よく忘れて、ゴマ粒のような事実から膨れ上がった風船のような“お話”を展開する。(後になって思えば、お人よしなのかただのバカなのか都合のいい話に騙されてきた。)
ここまでも何度も経験しているので、ちょっとまいったなという気にはなるが驚かない。驚くのはそれぞれの人が人に向かって吐く棘にある。自分の都合のよい話に展開するために人としてのありよう、人と人との関係のありようがないまでの都合のいい話に、事実関係を尋ねたら、「それって、私を陥れようとしてるんですか」というささくれ立った言葉がでてきたことがある。正直言葉がなかった。そこまでゆくと、不幸にしてその類のことを日常的に感じる社会なり組織にいらしただけで、なんとしてでも支えなければならない愛すべき人たちなのだろうと思わされる。生半可な気持ちでは受けきれない。それはもう個人の問題ではなく組織の、組織を作ってきた人たちの、組織を引っ張ってきた人たちの責任としか思えない。
この歳になるまで色々なところで企業としての組織としての、個々の事業展開の問題解決にあたってきた。その度にすさんだ環境のなかで痛んだ人たちから色々な話を聞いてきたが、能力不足でこの言葉は聞き得なかった。経緯も含めた事実を、できるだけバイアスのかかっていない事実をつかみたいから素直に経緯を聞いているに過ぎない。過ぎたことをとやかく言ってもなにも改善しない。あるのは改善しなければならない今と将来だけ。起きてしまったこと、その起きてしまったことの原因となったことをなんとかしなければという気持ちだけ。お漏らししてしまった幼児になぜしたのと怒って何がある。まずお漏らしの後始末をしなければならない。なぜしたのと怒っても時間を巻き戻せるわけでもない。経緯と事情。。。を知りたいだけなのだが、返ってくるのは、「わたしじゃないですからね、」「それはxxxさんですから、。。。」、あげくの果てが、「私を陥れようとしてるんですか」。。。耳を澄ませ(澄ませれ)ば、どこでもどこからか聞こえてくる話だろう。情けないことにそこまでの聴力がなかった。一度聞ければ聞き方のコツも得られようというもの、聞かせて頂けたことに感謝している。
『信なくば立たず』の真逆とでいうのか、その言葉、聞いてしまった人より発した人にそのまま返って来る。組織として人を貶めるようなことをしてきているから、つい口からでてしまった言葉。フツーの人なら、一緒に何かをしようとは思わない。フツーの人ならそう思ってそれで終わりだろう。
人間誰しも優点もあれば欠点もある、問題だらけ、。。。それでも問題解決に向けて一緒にやってゆくしかない。一緒に仕事はできないと思わせられた人たち、その人たちとどうやって明日に向けた仕事をしてゆけるか、傭兵に課せられた課題の一つでしかない。
おかしな組織や文化に押しつぶされ痛んだ人たちが解放されたときに嬉々として発揮した力を何度も見てきた。それは経緯を知ってその場に居合わせた人にしか分からない。マイナスをプラスに、弱点を強みに変えられれば勝てる。人は環境や状況で変わる。変わらない人はいない。もっとも変わろうが変わるまいが、棘があろうがなかろうが、多少の毒など気にもせずみんな丸呑みして前に進むだけ。進めなければ傭兵家業は成り立たない。進めば進んだでそこにまたトラブルが待っている。進むたびに新しいことを学ばせて頂ける
2015/1/4