社会学、経営学に学んだら

社会学が気になって何度か入門書や解説書、ちょっと特殊領域に入り込んだ本を読もうとした。大学の教科書のような一冊(概論?)だけは読み通せたが、その一冊以外は読みきれずに途中で放り投げた。正月休みにまた懲りずにチャレンジして挫折した。途中で放り投げた分、時間に余裕がでてあれこれ違うこともできて、それはそれなりによかった。よかったと思う反面、社会学と銘打った本になると、なぜこれほどまでに付いてゆけないのか、自分の能力不足を棚にあげて考えてみた。
機械屋崩れの制御屋、ころり転がって気が付いてみたら、市場開拓を中心に据えた建て直し屋とでもいうのかエンジニアリングに軸足をおいた経営屋になっていた。人文系は所詮巷の素人。その素人がなぜ社会学なのか?何を求めて社会学なのか?関係書籍から何を得られずに挫折するのか?自分自身に改めて問うまでもないのだが、一言で言ってしまえば社会全体を鷲づかみにしたい、自分の立っている場所からの景色ではなく、社会全体を鳥瞰したい、できないかという気持ちを捨てられないでいる。
企業を渡り歩いてきた仕事の必要から色々なことに手をだしてきた。職業人としての責任をまっとうするための技術的な知識とその背景にある物理や化学、企業の損益に対する責任から経理から会計処理に至る知識、労働基準法から派遣社員の扱い、それにもまして経済学も哲学も気になってしょうがないという思いから勉強してきた。それぞれの領域があって、それぞれが自己の領域と関連領域まで出て行って進歩してきたのが見える。では社会全体を鳥瞰する視点と論理はどこにあるのか。素人が手作りするものじゃない。どこかに確立された学術体系としてあるはずだろう。それが社会学だと思ってきたし、今も思っている。
ところが社会学にそれを求めたとして、今の、将来の社会学がその要求に応えられるようには見えない。全ての人文科学の集大成としての社会学がありえるのか?ほとんどの社会学者や研究者がこの問いに対してそれなりの答えをだしているだろう。哲学にしろ経済学にしろそれぞれの領域のなかで細分化された領域、そのまた先に細分化することで進歩してきたところに、全ての人文科学の集大成?在りえるのか。在りえるという主張、ほとんど誇大妄想に近いのではないかと思う。
集大成としてのありようと社会の一部の一部のそのまた一部の小さな社会領域に限定した社会学の二通りに分かれて、両者の違い、並列から生じる社会学とはという問題から目を逸らして、どっちも社会学というあいまいなままで今の社会学があるように見える。集大成の立場に近い先生方の論考というのか主張を読めば、集大成が故の抽象論の域をでない。ご高説は立派なのだろうが、巷の切った張ったの世界の卑属な者には傾聴しようにもしようがない。口の悪いのに言わせれば、人文科学の屋上屋に喩えられかねない。一方小さな社会領域に限定された話を聞けば、その限定された領域かその近くにいる、あるいは興味のある人たちにしか関係ないというこれも当たり前のジレンマに陥る。
集大成は抽象すぎて、小社会の話では小社会の人たちだけという、いずれにしても一市井のものが社会全体を鳥瞰したいなどという思いのもとに時間をかけるところではないということになる。
集大成ということで見ると、ビジネスの世界では興味深いことが起きている。MBA(経営管理学修士)の先進国米国では、一時の熱も多少は下がって、たいした意味も価値もないという批判もある。それでも人の向上心や競争心に訴える強さもあってだろうが、MBAは米国のグローバリゼーションを支える文化(支配)基盤を作りだすものとして着実に世界に広がっている。豊になった社会が教育を売り物にする業界を生み出した。その業界が金になる新しい商品を作り出す。その商品の一つが人文科学の屋上屋としてのMBA。社会の実体験から学ぶより、金で買える与えられた教育で社会に出る前に優位に立ちたいという社会層の心情に訴えてMBAビジネス花盛りの感がある。
そのMBA、多くの領域で学術研究を目的としているようには見えない。豊な社会層、あるいは豊な社会層に手っ取り早く入り込みたいと願う社会層の需要に答える−市場要求に応える−教育産業として金になるところから始まっている。ここに人文科学の集大成の立場あるはずに社会学との大きな違いがある。方や学術研究を目的としビジネスとしての視点を欠いた社会学。ビジネスという言い方に引っかかるのであれば巷の需要と言えばいいのか。逆のアプローチとでも言えばいいのか、経営実務に必要だろうという即の効果を求めて人文科学のあれこれの領域の、言ってみればつまみ食いで一つの教育体系を作り上げた経営学とその先のMBA。
五里霧中の戦場で実務に携わってきた者の目には、経営を標準化し学術体系にまで昇華した経営学というものが本当に存在しえるのかという本質的な疑問がある。極論すればよく使う標準ツールを集めたツールキットとその使い方に過ぎないのではないか。経営に必須の共通項はあるにしても経営対象によって経営指標も違えば手段も違う。大学の経営と競馬などのギャンブルの経営、パチンコ店の経営と葬祭場の経営、表の社会には出しようがない組織の経営も同じと主張するのは、主張できるのは実業から一歩下がったところにいる狭義の定義では実業ではない銀行や金融機関などだけではないのか。
社会学と同じようにさまざまな人文科学の知見を企業経営の目的に合わせて整理して総体としての経営学を理論化したとして、果たしてそれが一つの整合立てられた学術体系になり得るのか、その学術体系が実の経営にどれほど有効に活用しえるのか素朴な疑問が消えない。
同じ業界の競合同士でも実の経営はそのときの実情や将来をどう見るかによって大きく異なる。異ならない、偏らない経営など在り得ない。いくら学者先生が理論化しようとしたところで経営は実学である。理論化に長けた先生が企業経営に才能を発揮できるとも思えない。極論すれば机上の空論をもっともらしく売り歩いていると言ったとして、どれほど実情からかけ離れているのか、どれほど失礼に当たるのか分からない。
社会という視点から人文科学の集大成をしようとしている社会学、立派な学問領域だと思うし、でなければならない。立派であるがゆえに抽象論に落ち込みかねない。一方即の金をエネルギーにして流行の波まで作り上げた経営学とその先のもっと金になるMBA。どっちがどうのということでもないだろうが、フツーに俗な巷のものは、たとえすぐ剥げる安物のメッキで使えないものであっても即の金に引きずられる。寂しい話だが、これも社会の現実。社会学の先生方、これも先生方がみなければならない社会の一片−MBAビジネス(産業)じゃないかと思う。そこから見てみたら閉塞感をぬぐいきれない社会学に新しい活路が見えてくるかもと思う。もっともそんなことを思うのは書店に並んだ社会学の本すら読みきれない巷の素人だけかもしれないが。
2015/2/25