ちょっと待て、もっと楽にできないか(改版1)

卒業してそのまま就職した工作機械メーカでは、あちこちに標語が掲げられていた。工場中どこを歩いても、一つや二つは目に入る。どれも風景になってしまって、気にする人はほとんどいない。そのなかで一つだけ、風景になりきらないものがあった。組立現場の天井から下がっていた標語「ちょっと待て、もっと楽にできないか」には見る度に考えさせられた。

汎用機の製造現場は多少バタバタがあったところで基本的には同じ作業の繰り返し、惰性が日常になる。変化も刺激も少ない職場で、仕事ではくすんで見えるのに、趣味の世界では輝きのある癖の強いオヤジが何人かいた。そんなオヤジ連中のなかに、軽い知的障害?を感じさせる話し方以外では、存在感のない人がいた。五十を過ぎた、影の薄い、今でいえばオタクになるのだろうが、標語では自他共認める「第一人者」だった。まるで体中にちゃちな刺青でも入れたかのように、愛用の工具箱からちょっとしたケースにまで、どこにもここにも自慢?の標語が書かれていた。標語でいくつもの賞をとったオヤジさんの代表作が「ちょっと待て、もっと楽にできないか」だった。

戦時中は世界でも最大手の工作機械メーカで、六十年代には米国の業界紙に世界の名門として特集まで組まれた会社、それなりに歴史の重みというのか昔からこうしてきたという不文律のような仕事の仕方があった。継承された企業文化が、新しい技術の導入、時代にそくした業務体系から日々の仕事の仕方に至るまであらゆる改善の障害になっていた。

誰しも日々忙しく働いて、今までと似たような結果が出れば、そのまま同じことを同じようにしていればいいと思う。個人としてだけでなく集団として何の疑問もなく、今まで通りを今まで通りに続けて、違う目的ややり方を思い浮かべる人たちを、自分たちの価値観を軽視するものとして敵視していた。

はじまりからして茶番の改善提案活動、いくら奨励したところで、目を届く範囲、理解し得る領域に留まって、取るに足りない目先の改善しか出てこない。全社を見渡せば、将来を見据えた組織や業務体系を思い描いて主張する人たちもいた。聞くだけの耳もないところで、社会改革のような主張、当然のように地方営業所や海外支社に左遷された。経営陣は自分たちの無能を証明しかねない改革の芽を摘んで、自分たちが聞きたい改善提案、小手先の誰でもすぐ実行でき誰でも体感できる、ささやかな改善までしか求めなかった。

同じことを繰り返して職務をまっとうしていると思っている人たちには、「ちょっと待て、もっと楽にできないか」は必要にして十分な警句だろう。ただ、それはあまりに個人の視線と努力に限られるし、誰から誰への何をもってしての警句かを考えればそんな標語早々に下ろすべきだった。

掲げてあることに何の疑問も感じない人たちの集団。何時の時代にもどこにでもある惰性で生きている社会の恐ろしさを思う。良く言えば安定した社会。気がついた時は社会の変化に取り残された小集団。社会の目で鳥瞰してみれば消えてなくなった歴史上の小集団に過ぎないのだが、そこで働いていた人たちが社会から消えたわけではない。

標語マニアのオヤジさんが思った標語が文字通り語っていることと、その標語がオヤジさんの思いから飛び出て言外に発していた警鐘との乖離に気がついた人はいなかったろう。今まで通りの経営陣が、小手先の改善を個々の現場従業員の創意工夫に求めて、「ちょっと待て、もっと楽にできないか」

労使紛争が盛んだったこともあって、経営陣の考えはおおよそ次のようにまとめられる。「会社組織は歴史に洗われて今日に至ったもので、そのありように問題があろうはずもない、ましてやその組織のなかで昇進して経営陣に参画するに至った自分たちは会社そのもの。その自分たちが今まで通りの業務を遂行しているのだから、会社として問題などあるはずがない。業績の長期低迷の原因は社会思想にかぶれた一部の従業員とその影響を受けてしっかり働かない従業員にある」

倒産して会社が歴史上のものになるまで、「ちょっと待て、もっと楽にできないか」は下がっていたと思う。それをあたり前と思っていた人たち、今でもあたり前と思っているだろう。もしかしたら転職先で同じ標語を下げていやしないかと余計な心配をしてしまう。標語自体は言い得て妙、使える標語。ただ、その標語が使われる状況次第で人たちの視点を問題の根幹から逸らすことになる。
2016/10/23