どうしましょう(か)?

組織上部下にあたる人たちから「どうしましょう?」と聞かれて、その度に「どうしましょうかね?」、「どうできるかね?」と聞き返すようにしていた。ときにはあまりに安易に聞いてくるのに閉口して、「“どうしましょうか?“というのは聞きたくない。どうしたいんだ?できることは何だんだ?」と最初の返答の口調がきつくなることもあったが。
若い時、ろくに考えもせずに社長に「どうしましょう?」と聞いて、「どうしましょうというのは聞きたくない、どうしたいんだ?」と切り返されたことがある。行き交う言葉は似たようなものだが、どうするかを決めるまでの過程とその過程の基にある人としてのあり方が違うと自負がある。
上司は現状を理解しているという前提のもとに細かな説明なしで、「どうしましょう?」と聞かれて、答えられる上司がどれほどいるだろう。E-mailで情報交換も意志も伝達もされる時代、担当者である発信者は関係者や上司である受信者が発信者と似たようなレベルで状況を理解していることを前提として話す。ところが上司や関係者の状況理解は限られている。それを理解せずに望むべきでないことを前提としていることに担当者は往々にして気がつかない。
状況を最も詳しく理解しているのは当事者である担当者で、関係者も上司も担当者から連絡や報告を受けて(よくて)知っている(はず)にすぎない。上司も関係者も知らされているだけで状況を把握していることは期待できない。格好をつけた上司の「どうしたいんだ」などという押し返しは、上司としての対面を保ちたいという見栄に近い気持ちと、しばし自分の無知と無能をごまかすための方便でしかない。
担当者から問題解決の方法としてこれこれとこれこれの案があるという具体的な案でも提供されなければ、ほとんどの上司は何も決定できない。状況を把握する時間的余裕がない、時には本質的能力の限界で状況把握すらし得ない上司がいることを思えば、担当者が関係者と調整を付けた上で何をどうするかという複数の解決案を提案してリソース充当の承認を得るための御前会議しかない。実務の現場を理解し得ない、能力不足の上司であればあるほど、パブロフの条件反射のように「どうしましょうというのは聞きたくない。どうしたいんだ」と切り返してくる。
状況が複雑に交錯していて判断が難しいときもあるだろうし、手を打とうにもリソースの手当がつかない場合もある。できることに幾つもの選択肢があるようでも実際にし得ることは限られている。あとは上司の決断でしかない。それでも決断を躊躇し、決断を下す責任を回避しようとするのがいる。
間違って「どうしましょう?」と聞いてしまって失敗したと悔やんだことがある。聞いたところで、どうするというまともに回答する能力がないだけならまだしも、間違ってもそれはないだろうとうことを言い出しかねない。変なことを言い出されて、実行可能なまともな対策に引き戻すのに要らぬ手間暇がかかった。
部下から「どうしましょう?」、上司から「どうするか?」と聞かれれば、上下関係に関係なく「どうしましょうかね?」あたりで受け止めて、一緒に作業をしてゆくのが本来のあり方だと思う。一人では気がつかないこともあるし、思い入れもあれば思い込みもある。一緒に整理しても見落とす可能性がある。それでも、一人でやるより抜けがすくないし、対策案も選択肢として極端なケースからこのあたりが順当な選択肢だろうというものをリストアップできる。それぞれの実施に必要なリソースや実施した場合のリスク、社内社外の政治状況。。。まで含めて何をどうするかの選択から最も妥当な決断をし得る。
部下からの「どうしましょう」や上司からの「どうするか」どっちも本質的なところでは能力不足と当事者意識の欠如が原因だろう。責任をもって歳をとるのは難しい。ただ仕事をしていると、若い時の「どうしましょう」が歳をとっての「どうしたんだ」になりかねない。
立場は違えどどっちもどっち。こうはなりたくないと思いながら、「どうしましょう」から「どうしましょうかね?」って歳をとるように務めてきた。
2014/7/13