掲げたくない感謝状(改版1)

米国系制御機器メーカの日本支社の大会議室には幾つもの感謝状が掲げられていた。(壁の上の方にちょっと見上げる高さなのだから掲げると言っていいだろう。) 会議室に入った人に見てほしいから掲げるのであって、人に見られたら恥ずかしい物は掲げやしない。“掲げる“という言葉には誇らしく人に見せるという意思がある。
入社したてのころ感謝状を贈呈された経緯を知らないから数の多さと贈呈者の社名とにちょっとした誇らしさ−いい会社の一員になれたという気になった。一年ちょっとの間に感謝状が一つ増えた。文面を素直に見れば、確かに感謝状。でもそんな物いらないというより贈呈する会社の神経を疑った。名のある大企業から感謝状を贈呈されれば、たとえそれが忘れてしまいたいことであっても断れない。
感謝状をもらったプロジェクトには関係していなかったが何でも聞こえてきた。完遂など求めようもない泥沼だった。エンジニアリング部隊の能力を見極めて客と折衝して提供するシステムの仕様、客や他のべンダーとの分掌。。。営業が仕切らなければならないのだが、営業にはその能力も意志もない。いきおい客に言われるがまま、何を言われているのかも分からずにエンジニアリング部隊に丸投げしてしまう。営業にはミーティングの設定と客から自社への一方通行の情報(要求)の流れのメッセンジャーボーイ程度の能力しかない。その上のマネージメントは格好をつけるのがせいぜいで状況を把握する能力がない。社としてのエンジニアリング能力をどうするかという本質的な課題について考えがない−考える能力がないから似たようなトラブルが繰り返し起こった。
客の無理難題の要求が、それもしばしば客自信も何をしたいのかはっきりしないでプロジェクトの途中で二転三転して迷走する。何を要求されているのか理解もせずに何でも請け負ってきて、いざとなると逃げてしまう営業。当然のこととしてプロジェクトにはかなりの遅れが出る。どこかで妥協しなければならないことを客の実務担当も分かっているが、客の上層部が実情を知ろうとしないでベンダーを叩けばなんとでもなると思っている。
プロジェクト全体のとりまとめをしなければならない元受のエンジニアリング会社がただの手配師に堕して具体的な詳細を理解せずになんでも安易にベンダーに押し付ける。そんな状態で自社の側に問題があるのか客の側、あるいは他のベンダーも問題なのか、それとも複数社間のデータのやり取りの問題なのかの切り分けは難しい。自社の製品上に障害の症状が表示されていたことからそこに問題の原因があると考えがちだが、見えたところは見えたまでで障害の症状に過ぎず、障害の原因がどこにあるか分からない。
営業はとうの昔に逃げている。エンジニアリング部隊のマネージャは問題の原因は客の要望(仕様)を確認せずに受注した営業部隊にある押し返した上で担当したアプリケーションエンジニアに任せるかたちで逃げる。アプリケーションエンジニアが人質として現場に残される。
一人残されたアプリケーションエンジニア、営業ほどのだらしなさがあればいいのだが、仕事の多くがキーボードを叩くコンピュータ化した制御屋、線が細い。真面目で几帳面でなければ勤まらない。泥沼化したプロジェクトではそれが災いする。どうにもならないところで客には客の客からプレッシャーが、そのかかったプレッシャーが人質として残された一人のアプリケーションエンジニアにかかる。相談相手もなしで一人でこれといった確証もなく、もしかしたらちょっとでも改善できるかもしれないという点をほじくり返しては検証作業を繰り返す。いくら繰り返したところで何の解決になりはしない。自社の問題でないことを証明するのは難しい。
そうこうしている内にことは技術を超えて政治の領域に入ってゆく。営業のトップと技術のトップ、さらには日本支社の社長まで引きずり出されて客の最低限の要求だけは満足することを確約させられる。技術のトップが前面に出て状況を把握して落とし所を見極められればいいのだが、技術的確証のない状態では何も明言できない。そこに面子を気にする支社長と客の顔色を見て阿ることしか能のない営業トップが仕切って折角の収拾の機会を失う。
ひどいプロジェクトでは落とし所すら迷走して何度もトップの話し合いになるのだが、落とし所に至るために必要な条件や能力を知らずして決めるから、また一段下げた落とし所を探す羽目になる。実務をしらないマネージャが犯す誤りの典型が何度か繰り返れているうちに人質となっていたアプリケーションエンジニアがおかしくなる。
アプリケーションエンジニア、ちょっと抜けているか、多少のことでは動じない強さがあればいいのだが、なかには精神的に参ってしまって病院通いを繰り返した後にいなくなる。プロジェクトの渦中で客にも行かず会社にも来なくなってしまい、ちょっと見ないなと思っていたら退職していたなどということが起きる。
挙句の果てが、もうこれで諦めるしかないという半煮えのような状態で終わりにして感謝状をもらう。
入社後に貰った感謝状を見る度にこのプロジェクトではあいつがいなくなった。あのプロジェクトではあいつとあいつがいなくなったと思い出す。入社前の感謝状は知らないが知っている限りでは感謝状をもらったプロジェクトでまともにいったのは一件もない。
かなりの人数が疲弊したが誰もいなくならなかった幸運なプロジェクトもあった。でも幸運なプロジェクトでは感謝状はもらえない。感謝状の数だけ人が傷んでいなくなった。感謝状とはそこまでいって始めてもらえるものだと知った。できれば貰いたくないし見たくもない。部隊が傷んでなかには再起不能になった従業員がいるのを気にもせずに感謝状をもらって誇らしげに会議室に掲げる。
感謝状、何が書いてあろうがたかが紙一枚。従業員の犠牲でもらった紙一枚。その紙一枚を誇らしげに掲げる。無神経にもほどがある。
社外の目を気にして従業員をなんとも思わない経営が経営だと思っている経営陣。成り立つはずもなし、成り立っちゃいけないはずなのが似たような経営が後を絶たないというより増えているような気がする。人が痛んで社会が傷む。傷んだ社会が人が傷むのをなんとも思わなくしてしまったのか。
2014/10/19