海外支社−宿痾の問題(改版1)

支社設立の目的を達成するための戦略を聞けたことがない。聞けたのは戦略と称しているものまでだった。支社長聞いても、本社の社長や役員に聞いても、どこかで聞いたことのあるような総花的な定型句以上のものがでてきたことがない。なかには流行のトッピング語で今風に仕立てあげているのがあったが、中味があやふやで掴みどころがない。言っている本人たちも何を言っているのか分かっているようには見えないが、まさか職務尋問のようなこともできない。

現状を見れば、いくら格好をつけても、考えているようにはみえない。考えるに知能はあっても、考えるための知識がない。進出先の市場も、そこにおける自社の立場もろくに考えもせずに、母国の市場でのありようを、そのまま海外に持ち込むんでいるだけだった。
それでも、三年五年と進出先で事業展開していれば、フツーの知能があれば、そこにはそこの、自分たちがやってきたやり方とは違う何かがあることくらいには気が付く(はず)。気が付いているのか、気が付いても、違うやり方を取り入れる気があるのかないのか、あるがままなりの支社が、まだ死んでませんという感じで続いている。

当初の目的と現状との乖離が大きければ、日々の経営にも齟齬をきたす。ただ、それは真摯に将来のありようを考えたときの話で、現状をそのまま受け入れて日々が流れていればいいと思えば何もない。
あるのは一向に立ち上がる気配のない支社。その現実のなかで開設以来続いてきたやり方−本国から持ち込んだやり方をほとんど変えることなくやり続けている。それを在るべき姿としか考えられない知識と知恵。支社が経営として成り立たないことを気にはしながらも、自分たちのやり方をそのまま続けるだけの知恵なのか文化なのか。

赤字だろうが黒字だろうが日本支社が全社に占める割合はゼロに近い。いくら手をかけたところで、日本市場で市場占有率を争えるようになるとは誰も思っていないし、期待もしていない。既に十年二十年やってきてどうにもならないのだからという諦めと時間が証明してしまった現実。現実が目の前にあるのに、何がその現実をもたらしたのかを考えようとはしない。多少でも考えれば、母国における自分たちのやり方の日本での適合性に対する疑問が出てくるが、誰も疑問符を発する勇気はない。
企業として長年かけて培ってきた文化、その文化のありようを規定している社会としての文化、その文化を生み出した歴史や風土。それが進出国の市場への適合を難しくしていると理解できる経営陣はなかなかいない。そこには、国内市場で成功して海外市場に進出した成功者としての思い上がりまである。
自国の社会や文化、自社のありように疑問を持つ人は知恵のある人が経営陣の一角まで昇進するのは希なのだろう。経営陣には、自分たちのやり方に対して批判的視点があり得ることに気が付く能力は最初からないか、早々に失われている。

その程度の人たちだからだろう、支社が機能しない原因を自分たち以外のところに求めようとする。進出先の文化や社会、商習慣から規格や法規制、自分たちとの違いを自分たちが解決しなければならない問題としてではなく、相手の問題−相手が解決しなければならない問題とする。その相手には現地雇用の経営陣から末端の従業員までが含まれる。俗ない方をすれば、「なぜ、あいつらはオレたちが(母国で)やっているように仕事ができないんだ。」になる。自分たちは成功者(本国)で、あいつらの能力が問題の根源と考える。

現地で採用された人たち(日本支社の従業員)は、本社が進出先(日本)に持ち込んだ本社のやり方に適合しようと努力する。適合できなければ社内に居ずらい。持ち込んだ仕事の仕方が進出先の文化や社会、商習慣などに適合している可能性は低い(しばしない)。どこにも誇れる歴史や文化、それに基づいた社会観や商習慣、労働の場での常識のようなものがある。
支社の経営も仕事の仕方も母国のやり方に適合すればするほど、進出先の顧客やパートナー。。。に適合しにくくなる。それは、従業員においても同じことが言える。母国のやり方に順応し続けた人は、母国のやり方が常識であって、そこから一歩も出なくなる。母国の形に嵌ってしまって、日本の市場や顧客の要求に対応する能力を失う。

型に嵌るには受身でなければならない。受身でいられる程度の人材でなければ型には嵌りきらない。その程度の人材、嵌った型が状況に合わなくても自分の責任だとは思わない。それなりの能力の人材−しばし嵌らなければならない型とは相容れない−でなければ能動的に状況に対応できない。型に嵌らなければ居ずらい文化に能力のある人材はいつかない。
日本人従業員の多くが日本社会からずれた型に嵌って、日本の商習慣とは違ったことを言ってくる。長年その型に嵌っていると、日本社会からずれていることに違和感がなくなる。何を勘違いしてか、ずれていることに誇りすら持つようになるのがいるからから恐ろしい。

全社のレベルでは問題にならない程度の赤字を続けて、進出先の従業員を型に嵌めて社会から遊離した人材に染め上げる。支社がいつまで経っても機能しないのは、進出先の社会と顧客と従業員にあると考える視野狭窄が本国における常識になる。
知識も知恵も能力も、母国の鋳型以外では存在し得ない人たち。できれば母国にいて、出てこない方がお互いのためだろう。貴重な日本の人的資源、たとえその程度の人材であったとして、害しかない型にはめての浪費はお断りしたい。
もし、身近に十年二十年経っても立ち上がらない外資があったら、そこではこの宿痾の問題を抱えていると思って間違いない。

似たようなことは日本企業の海外支店でも起きているし、ときには日本のなかでも起きている。地理的な文化の相違だけではなく、時間的な文化的な相違−時代の変化に対応しきれない組織でも同じようなことが起きている。起きていることを知りながらも、自分たちの文化に、してきたことに誇りがあるのだろう、今の社会に適応しようとしない、変わろうとしない組織や人たちがいる。 ちょっと周りを見渡せば、どこにもここにも、停滞したというのか腐ったとでも言うのか発酵でもしたかのような組織や、そこに嵌りきった人たちがいる。人さまざま、それがいいという人もいるだろうが、それじゃ困るという人たちもいる。いなきゃ困る。
2016/7/17