定型化と再定型化

人を単純に両極端に二分化して、どっちがどうだのという話は好きになれない。一義的に二分できるほど人は単純じゃない。にもかかわらず、大雑把な人と神経質な人、忙しい人と暇な人、太った人に痩せた人、できる人にできない人。。。二極に分けた例を数え上げたらきりがない。
二分化は話をする側が話をし易く、分かり易くするために使う便法でしかない。便法、極端に言えば、話をする人の理解や説明する能力の限界を補うために導入されるものであって、二分化のいずれかという評価をされる人にしてみれば迷惑この上もない。
多くの人たちが、ある一面ではこっち別の面ではあっちで、単純に二分化できない。二分化などせずに説明できないかと考えてきたが、どうも上手くゆかない。いくら考えていてもしょうがないので、好きではない二分化を使うことにした。
日常業務を定型化しないとミスも起き易いし効率も求め得ない。関係者に分かり易い記録も残せない。定型化すれば、最低限のトレーニングさえすれば、未経験の人でも無難に業務を処理できるようになる。さまざまな点で日常業務は定型化した方がいい。それぞれの担当者が関係者との情報交換など考えることもなく、自分の好みや自分の仕事のし易さから独自の処理方法や記録を求めていったら、組織として成り立たない。組織として成り立つためには業務を定型化しなければならない。
定型化にしても標準化にしても広い意味では規則に他ならない。規則は継続的に人々の仕事の仕方を規定するから規則なのであって、頻繁に変更するものではない。朝令暮改の規則は規則たりえない。規則は策定される時点までの経緯と策定する時の状況理解のもとに策定される。策定され運用され、関係者にとって運用が当たり前になって、はじめて規則が規則としての効果を発揮する。発揮した状態を指して業務が定型化されたと言う。
さまざまな関係者が定型化によって恩恵をこうむる。こうむることの方が制限され失う自由より社会的効果が大きい限りにおいて、定型化が関係者によって支持される。
これに対して反論があるとは思えない。であればできる限りの定型化を進めて組織としての標準を作り上げればいいのか。単純に考えればYesでしか在りえないのだが、現実はそう単純ではない。関係者は一枚岩ではない。既存の定型化を支持する人たちと、再定型化を望む人たちや必要とする人たちがいる。
社会も市場も客もご同業も全てが日々変わっていっている。変化の早い時代だ。十年一日のごとくはありえないし、三年前、半年前と状況が違ってくるのが特別ではなくなった。変わり続ける社会や市場に対応しなければならないとき、以前の状況をもとに作った、関係者の合意にもとに運用されてきた定型化が弊害になりかねない。定型化は必ず固定化に行き着く。固定化すれば日々変化し続ける社会や市場に対応しきれなくなる。
既存の定型化よる精神的な安心感に加え、それによって個人としての存在価値があると考えてきた、信じている人たちには、再定型化に対して生理的な拒否反応がある。本当にうまくゆくかどうか分からない新しいやり方より多少の問題があったにせよ、今までやってきたやり方の方が安心だし、まず慣れているからミスも少ない。。。今まで通りの定型化のままでいたい、固定化したい。合理的な検討とか考えというより人情だろう。
長年の経験の集大成としての既存の定型化には、それで業務が遂行されてきたという実績がある。新しいやり方−再定型化は可能性でしかない。今日の時点でみれば今まで通りの定型化の優位性は明らかだろう。さらに今までの定型化は、組織内において実績のある経験者からマネージメントまで含めて自分たちが作り上げてきた定型化という思い入れもある。
新しい状況に対応すべく再定型化を考えるのは組織内でさしたるポジションを占めてはいない、既存の定型化の経験の浅い人たちのことが多い。既存の定型化に染まった人(たち)は、既存に引きずられ再定型化に価値を見出すのが難しい。関係者が、既存の定型化を運用してきた(実績のある)人たちと再定型化−既存の定型化の弊害を解消し、効率を向上したい人たちの二極に別れる。それは保守的や新し物好きというような個々人の資質や考えによってではなく、組織内の立場の違いによるところが大きい。
実績のある経験者で将来の可能性を見ようとする資質のある人がいればいいのだが、実績のある経験者であればあるほど現状に執着し易い。再定義化が彼らの存在価値を損なう可能性はあっても、高める可能性は少ないから尚更だろう。再定型化が実績の乏しい若い世代の台頭を許すきっかけにすらなりかねない。組織のなかで権限を持っているのは、変わらない方がいい、今まで通りの定型化で立場が安定している実績も経験も豊富な人たちだろう。
そのような人たちは往々にして、新しいやり方を考えて業務効率を高めようとする再定型化を否定する。それを試みる人たちを排除し、既存の定型化の固定化に執着する。
実績が大きければ大きいほど、将来は過去の自然延長線の範疇に留めたい。人情だろう。その人情、無碍にする気はさらさらないが、将来のことを思えば大事に真綿で包んでしまっておきたくなる。既存の定型化で組織を背負って立っていると思っている人たちに、生産性の向上を目指して再定型化を試みる人たちが潰され、排除されるのをいくつも企業で見てきた。
再定型化の試みが、彼らの存在基盤である既存の定型化を破壊するのではないかという恐れがあるのだろう。人としての尊厳までを否定し、権力や権限を振り回して現状に留めようとする。それはもう病的と言ってもいい“むき出しのエゴ”に遭遇すると、どうぞご随意にと言いたくなる。実績とは常に過去のもので、過去にしがみついて将来を見ようとしなければ、結果は見えている。進化を拒んでいて将来があるとは思えない。時間が証明する。
2015/5/24