ビジョナリーが見たもの(改版1)

個人的な経験からだが、二千年頃には既に米国系の日本支社で日常的にVisionだとかVisionaryという言葉が英語のまま使われていた。適当な日本語に翻訳できないまま、いつのまにやらカタカナでビジョンとビジョナリーという日本語として定着してしまった。外来語が土着化し普及する過程で必ず起きる意味や定義の曖昧さがこの二つの言葉にもおきた。もっともその言葉を使い出した米国でも、何をビジョンやビジョナリーと呼ぶのか、厳密な定義があるとも思えない。日本語になる過程で多少のずれや拡大解釈があっても、特段何が問題になるとも思わない。
思わないのだが、本来の意味にあまりに無頓着に、何でもビジョンだのビジョナリーだのと言われると聞いていてちょっと恥ずかしい。言葉遊びのような中味のない安物のビジネストークに終始すれば、時間は過ぎても後に何も意味あるものが残らない。それでも流行の言葉を並べれば今風の格好がつくのか、言う側も聞く側もなんとなく分かった気になるから不思議だ。
流行語を適当に使って格好がつけばいいという業界にいるわけでも、そのような立場にいるわけでもない。ロジックを展開して整合だった話しをしなければならない者として、使う言葉が意味していることを理解しておかなければならない。そうはいっても巷の一私人、高名なビジネスグルのように学術的厳密性を追求する能力はない。能力はないのだが、一私見をまとめておくもの無駄ではないだろう。
ご存知のように、二十世紀は技術革新と戦争の世紀だったと言われている。良くも悪くも両者の一方が他方を引っ張るかたちで、新しい技術が次々と開発され、戦争も職業軍人同士の戦の範疇を超えて、国家の総力をあげたものになっていった。
当時は、まだビジョンだのビジョナリーという言葉は使われていなかった。そこではビジョンやビジョナリーではなく発明家が工業化を推進する大役を担っていた。今までになかった基礎技術、その基礎技術の開発を可能にした科学の進歩があった。両者を合わせて科学技術という複合的な呼び名が当時の社会事情を反映していた。科学者と発明家が社会を牽引していた時代で、社会の成熟度がそこまでだったとも言える。
工業技術の進歩が、物を作る技術から社会や文化の要素まで含めた総合的な開発の段階に進んでいった。この社会状況を一言で言い表したのが、イノベーションだろう。イノベーションは製造業における工業技術や製造技術の開発、企業組織や製造業に留まらず社会の総合的な開発や進化を包括している。
それに気が付かないままか軽視して、”もの造り“に固執しているように見える。戦後の高度成長期の経済的、社会的成功の残渣−“もの造り“−思考の慣性から抜け切れない。全く違う視点からより、いままでやってきたことの延長線−”もの造り“−に留まっていた方が既得者には楽だからだろう。
ビジョンやビジョナリーを説明するよくある(卑近な)方法として、新しい画期的な製品やサービスを社会に提供することで大成功を収めた個人名をあげることが多い。その個人が考えたことがビジョンの格好の例であり、その人がビジョナリーであるとする説明。巷にはその個人名を冠した書籍がビジネス本として書棚を飾っている。
Webで“ビジョナリー“を調べたら、「日本語俗語辞典」のなかに次の説明がでてきた。分かり易い一般的な説明として引用させて頂く。urlは、http://zokugo-dict.com/27hi/visionary.htm
「ビジョナリーとは、先見の明がある人のこと。」「先進的・独創的なビジョンを現実化し、社会に大きな影響(貢献)をした経営者のことである。つまり、現存する市場や商品、サービス、技術を駆使して経営するのみでなく、新たな市場や商品、サービス、技術といったものを模索〜具現化することで成功し、更にそれが社会的にも影響力を与え、尊敬される経営者である。。。馬車が主流の時代に自動車を大量生産し、普及させたヘンリー・フォードなどがそれにあたる。」
ヘンリー・フォードを上げているが、近年最も人気のあるビジョナリーはスティーブ・ジョブスだろう。この二人以外にもアマゾンの創業者ジェフリー・ベゾスもビジョナリーにあげる人も多い。引用にもあるように、いくつもの要素を満たし、ビジネスで大きな成功を収めた人たちをビジョナリーと定義している。
技術革新の時代だった二十世紀には科学者と工業技術を革新した人たちが社会を牽引した。一般大衆消費財の製造と普及の時代だった。その一般大衆消費財を開発、製造、販売してゆくための要素が出揃った二十一世紀を牽引しているのは科学者でもなければ工業技術者でもない。牽引しているのは、出揃った要素を組み上げて、ビジネス体系を構築するビジョナリーになった。科学技術者は、ビジョナリーがビジョンを具現化するには必須だが、ビジョナリーにビジョンの一構成要素を提供する役割を担う立場になっていった。
パソコンもiPod、iPhoneもアマゾンのビジネス体系もなにもかもが、それを実現するための社会インフラから要素技術も製品も何も新しいものはない。それは既存の社会インフラと技術を組み合わせて一つの製品やサービスにまとめ上げられたものでしかない。
興味深い例がある。iPodはスティーブ・ジョブスの独創−少なくとも製品単体として−ではない。要素技術の組み合わせで最初に製品化したのはシンガポールのCreative Technology社で、Appleは特許料まで払っている。Creative Technology社は製品を造った。“もの造り”ではビジョナリーとは呼ばれない格好の例だろう。それをスティーブ・ジョブスは世界規模のビジネスにしたことからビジョナリーと呼ばれている。
特許侵害と支払いに関するニュースは下記BBCのサイトを参照。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/5280394.stm
Creative Technologyの日本支社に関しては下記urlを参照。
http://jp.creative.com/corporate/about
この視点でみればビジョナリーが何をみてビジネスを構築したかが見えてくる。それは基礎科学でもなければ基礎工学でも製造技術でもない。市場だ。市場にこういう需要があるはずだ。その需要を満たすためには、社会インフラのこれこれとこれこれの要素を、その要素を組み上げるこれこれの仕組みが。。。
必要とする要素が出揃った時代だからこそ、その開発にリソースを割くことなく、イノベーションにまい進できる。まい進を可能にする社会環境がそこにあった。シーズとしての要素の開発の時代からビジネスにまとめ上げる能力に重心が移動した。
二十世紀が技術開発の時代と言われているが、二十一世紀になってそれが終わったわけではない。個人の能力ではなく組織として社会として巨大なリソースを投下しなければならないビッグサイエンスの進化が加速している。いつまでも要素の組み合わせに長けたビジョナリーを成功者としてあがめる時代が続くのか。あるいはビジョンやビジョナリーに代わる次の社会層を表す言葉が生まれてくるのか。次の社会層、まさかクロンツではないだろう。もしそうだったとしても、クオンツがビジョナリーの任を担うことになるだけで、社会を牽引するのは市場−社会を見るビジョナリーであり続けるだろう。
2015/5/8