翻訳屋に(5)

転職先の翻訳会社は、社名にもテクニカルと入っていて、技術資料の翻訳に特化していた。製造設備を輸出する日本の産業構造もあって、仕事の多くが装置や設備の取扱説明書や保守説明書の英文への翻訳だった。事業規模は日本で二番目の大きさだったが、翻訳の質はと問われたら、それは翻訳者次第でしょうという答え以外に何があるとも思えない。外注や内勤の翻訳者で、この人なら間違いがないというのは数えるほどしかいなかった。

小説とかエッセーのような人文系の書物の翻訳であれば、感情の機微を表現する文体が求められる。技術書類はその反対で、求められるのは簡単明瞭、誰が読んでも読み間違いが(少)ない文章でなければならない。できるだけ短い、単純な構文と文体しか使わない。たとえ日本語の原文が、直訳すれば仮定法過去完了のような言いまわしになりかねないものであっても、英文では直截な文章にする。

文学部あたりで英語を勉強してきた人たちの目には、小学校高学年が書いたポキポキ折れた単調な文章が続いているように見えるかもしれない。個々の領域の専門用語や独特の言い回しがあったにせよ、翻訳に必要な英語の能力は平易な文語で簡潔な文章がかけることでしかない。極端に言えば、技術翻訳に求められる英語の能力はその程度ということになる。

その程度の英語の能力でいいのなら、誰でも翻訳できそうな気がするが、問題は日本語の原文に書かれている内容を理解できるかにある。国語教育が小説などの文学系に偏って、事実を事実として端的に書く教育がなされていないからだろう。日本の技術者の日本語は、分かっている人には分かるかもしれないという代物で、分からない人には到底分かるはずのないものが多い。
技術書類の翻訳現場で遭遇した主だった要件をリストアップしておく。

1) 日本語の原文は、英語で書かれなければならないことのヒントが書かれていると考えた方がいい。英語に翻訳する前に書かれている日本語の原文をまともな日本語に書きなおして、それから英語への翻訳になる。日本語への書き直しが翻訳の質を決める。

2) 日本語は読む人が主体で、英語はモノが主体になる。和文英訳では、文体を変換して味噌臭さを抜いてバター風味を添加する。英文和訳なら風味が逆になる。

3) 日本語は名詞が、英語は動詞のキーになる。日本語には万能動詞の「する」や「ある」がある。例として、「ペンキを塗る」は英語ではPaint(動詞)。「グリースを塗る」は、Apply greaseあたりでPaint greaseにはならない。

4) 日本語では主語や目的語がなくても、いっぱしの文になる。装置に貼られた注意書き(Caution plate)に「調整のうえ、ご使用ください。」とだけ書かれていたのには驚いた。マニュアルの中の記述ではない、事故の可能性を喚起する注意書きである。
この文章では、何を使う前に何を調整するのか分からない。さらに、手段も含めて、何をどのように、どこに合わせて調整を するのかも分からない。あるものの位置を決められたところに移動するのか、圧力や温度や流量を希望する設定値に合わせる のか、何も分からない。

5) 助詞には悩まされる。助詞のなかでも「で」は特に要注意で、書かれている文章の意味が分からないと、翻訳のしようがない。 たとえば、「AAAでXXX……」という文章があったとしよう。ここでAAAは手段のことも、あれば、理由のこともある。ときには日時のこともある。AAAセンサーでXXXの位置を確認するというものあれば、AAAスパナでXXX部品を締め付けることもある。AAAが十二月三十一日で、XXXが終わり、バーゲンの最終日のこともある。なかには、なぜ、ここで「で」を使うのか、日本語になっていない文章すらある。

6) カタカナは日本語と考えた方がいい。そのまま訳すのは危険。BBBユニットと書かれていれば、BBBが一つの単体として機械装置から取り外せることを意味している。機械のベッドなど単体として取り外せなければBBB unitとは訳せない。
スリットに25mmピッチで直径5mmの穴が開いているという文章があった。スリットとは細長い空間のことで、そこには何もない。何もないところに穴がある?電話で問い合わせても何を言っているのか分からない。客まで出かけて物をみてみれば、細長い鉄板で、英語からカタカナで書きたいのならストリップになる。

7) 不注意な文章が生み出す両義性には特に注意が必要。
「グラウンドを取ってください」というのは、何を目的として作業しているのか分からないと、全く逆の翻訳になりかねない。
制御システムの信号レベルのふらつきをチェックするのなら、グラウンド端子からグラウンド線を「取り外」してくださいになる。制御システムを組み上げる作業なら、グラウンド線をグラウンド端子に「接続」してくださいになる。方や取り外し、方や取り付けで、全く反対の意味になる。最低限の技術的な知識なしで機械的に翻訳したら、事故につながりかねない、とんでもない英語のマニュアルが出来上がる。

8) 保守説明書のトラブルシューティング表では、「現象」「考えられる原因」「対策」などの表題の基に書かれているが、日本人の技術屋で、この表題に従って整然とかける人は少ない。五六行目になると現象と考えられる原因がごちゃ混ぜになる。その下に行けば、対策も含めて何が何だか分からない記述なる。日本語で書き直したうえで英語への翻訳になる。

実務の世界では、翻訳学校などで使われている教材のような、字面で翻訳できる意味の通った日本語の原文は(少)ない。書かれていることからでは何を言っているのか分からない日本語を読み切る技術的な知識なしでは翻訳などできない。日本語で、何を言っているのか分からないのに、まともな英語に翻訳などできるわけがない。
科学技術翻訳士などという資格をもった翻訳者の多くが言語から入ってきた人たちで、技術的なことには興味がない、あるいは知識が足りない。資格が仕事をしている訳ではないと言ってしまえば身も蓋もないのだが、資格をもっている人たちの仕事の方が怪しいのには驚いた。
できる翻訳者で資格を持っている人はまずいない。個人的な経験からだが、資格をもっていないから、できる翻訳者とは限らないが、資格を持っている翻訳者は、まずできない翻訳者と思って間違いない。
2016/11/13