翻訳屋に(6)−外人部隊1

翻訳者はどうしても日本語の原文に引きずられる。原文を整理して、書かれなければならない内容に編集したうえで翻訳しても、原文のごちゃごちゃの破片が残る。また、どんなに優秀な翻訳者でも原文の読み違いもあれば、ちょっとした英文法の間違いもある。

翻訳室にはネイティブスピーカーのチェックということで数名のアメリカ人が働いていた。技術的な知識はなにもない、どこにでもいる英語を母国語としたフツーの知能レベルの人で、翻訳した英文をうけて、英文法の通った簡潔な文章に書き換えていた。日本語を読めないから、原文の読み違いのチェックはできない。ネイティブらしい文章にするのはいいが、しばし、原文の内容からかけ離れたすっきりした誤訳になってしまうこともある。それでも、翻訳会社としては、最低限の品質として文法の間違ったものは出したくない。それだけのためのネイティブスピーカーによるチェックだった

プルーフリーディングは、時給のアルバイトで、常駐の二人のアメリカ人に、新顔が出たり入ったりの緩やかなチームだった。英語に不安のある新米翻訳者、当初二人のアメリカ人には仕事の延長線でも助けられた。エリックという日本に長すぎる気のいいアメリカ人と働くための最低限のしつけすらあやしいセアーとう二人と毎日昼飯を、しばし夜は居酒屋で一杯にでかけた。

エリックは軍属の子どもとして中学校から大学まで日本で過ごしたためもあってか、英語があやしい。セアーや他のアメリカ人に「お前の英語はおかしい。一度アメリカに帰った方がいい」と言われていた。確かにエリックに英語のことで訊いても、はっきりした答えが返ってきたことがない。それでも翻訳を始めたばかりの英語に不自由しているものにとっては、何でも話せる、貴重な存在だった。
日本に長いし、同棲している彼女は日本人。それでも日常生活はなんとかなるというレベルの日本語で、読み書きはほとんどできない。日本の大学を卒業はしているが「神学部」。何人ものアメリカ人に「一度アメリカに帰って……」と言われても、帰っても職はないだろうし、帰るのが怖くて帰るに帰れない。いいヤツだったが、日米の狭間に落ち込んで、将来どうするという考え?訊かれても何もない、と思うからその話題には入れない。
エリックの自信なさそうな、気弱そうな言動と真逆のセアーには誰もが呆れていた。何をするにも自分しかない。仕事の緊張を保てるのは長くて十五分。ぼーっとしている時間の方が長い。セアーの勝手に一番迷惑をこうむっているはずのエリックが、いつも鷹揚に、まあ、いいじゃないかと付き合っている、不思議なコンビだった。

三人とも事務所にいれば、必ず一緒に昼飯にでかけた。事務所のある御成門あたりにはたいした店がない。三人して新橋に向かって歩いていくのだが、どの店に入るかを決めるのはセアーだった。ある水曜日、道を歩いていてセアーが「ここにしようと」と言った。いつもは何も主張しないエリックが、珍しく、えっという感じで反応した。「昨日もチャイニーズだったし、一昨日もチャイニーズだった」チャイニーズがイヤだという口調でもないし、どこにするという考えもない。ただ、三日も続けてチャイニーズは、という軽い響きの抗議だった。それを聞いて、セアーの言いぐさ、それはもう言い草と言っていいと思う。「So what?……、だからどうした、チャイニーズは毎日チャイニーズを食ってる」「俺たちが、三日続けてチャイニーズを食うのになんの問題がる」説得力があるのかないのか。いつものことでセアーと言い合う方が面倒くさい。

何から何までマイペースのセアーに、なにからなにまで相手次第のエリック。エリックのゆるさは、欧米人はおろか日本人でもめずらしい。ある日、いつのように三人で昼飯にでかけたレストランで、二人には頼んだものがでてきたが、エリックの注文を店員が聞き間違えたのだろう、なんだそれというものがでてきた。さしものエリックもちょっと驚いた。それでも、いつもの笑顔で、恐縮する店員に「いい、いい、問題ない」人が先で自分はあとでというエリックの生き様そのものだった。

自分しかないセアーが一度だけ顔色を変えて助けを求めてきたことがあった。社員旅行で伊豆を回って箱根にでた。芦ノ湖の遊覧船にのって、ぼんやりしたら、セアーが走ってきた。仕事でも私生活でもダラダラしているセアーが走っていることに驚いた。何事かと思えば、日本語―英語の通訳をしてくれという。何を言ってんだと思って、セアーが走ってきた方をみたら、中学生の修学旅行の集団がいた。セアーに引っ張られて集団にいって、すごい英語に驚いた。英語をしゃべっているのは分かるが、関西弁の強いイントネーションのせいで、日本人なら想像がついてもネイティブにはできない。関西風英語を通訳をした。ソシアルドロップアウトの見本のようなセアーでも、中学生に話しかけられて、いつものように無視したり、つっけんどんな言い方はできなかったのだろう。勝手なヤツで疲れるが、決して悪いヤツじゃない。
日本人が英語の発音がと気にするが、気にし過ぎだと思う。発音なんかどうでもいいとは言わないが、RでもLでもFでもVでも発音なんか気にするより、英語らしいイントネーションになっていれば通じる。

おかしなアメリカ人に外れた日本人が新橋や新宿あたりの飲み屋で三人の掛け合い漫才のような話をしていると、英語の分かる、英語で話をしたいというオヤジから若いのまでがよってきて、どうでもいいことで時間が過ぎていく。なかには「おじさん、英語じょうずだね」と言ってくる若いのがいた。二十歳そこそこのから見れば、三十を回ったのはおじさんなんだろう。それにしても、「じょうずだね」が世辞なんだか冷やかしなんだか、セアーではないが、余計なお世話だ。(技術)翻訳という自由業、翻訳した仕事が見えるだけで、名前がでることもないし自分は誰にも見えない。見えなければ誰に気兼ねすることもない。そこには古くさい会社組織の息苦しさから解放された自由があった。

翻訳屋、なにをどうしたところで、社会に顔のでないソシアルドロップアウト。そのソシアルドロップアウトの中の方が居心地がいい。なぜ?答えは簡単、自分もソシアルドロップアウトだから。
2016/11/20