翻訳屋に(8)外人部隊2

インド人の翻訳者が三人いた。二人は内勤で、もう一人は在宅で仕事していることが多かった。内勤の二人は好対照で、一人は驚くほど寡黙。もう一人は話し好きで、世間話のために事務所に来ているんじゃないかと思ったこともある。在宅の人は事務所にはしょっちゅう顔をだすのだが、内勤のインド人か誰かとそりが合わないのか、コーディネータのAさんと話をするだけで帰ってしまう。

社会経験も限られた三十をちょっとでたばかりのもの、当初三人を誰も同じインド人とみていた。出自も違えば、社会経験もなにからなにまで違う三人、共通項は流暢を超えた日本語だけだった。後ろで話をされたら、口達者な日本人同士の丁々発止としか聞こえない。三人ともそれほど完璧な標準語を話していた。寡黙な人は証券業界から翻訳に流れてきた人で、たまに技術的なことを訊かれたことがあるだけだった。

話好きは煩いくらいに日本通というのか、日本の古典文学かなにかが専門で、大学の非常勤講師もして日本語で本も出版していた。平家物語を話題に話しかけれたが、何を言っているのか分からない。平家物語は難しいにしても、夏目漱石辺りなら分かると思ったのか、数週間後には、本をもってきて、このくだりがどうのと言ってきた。仕事の関係以外では経済か哲学にしか興味がなかったものには、平家物語も夏目漱石も似たようなもので、それを専門としている人、それがインド人であろうが何人であろうが、話し相手にはならない。興味も示さない若い日本人をみて、寂しそうな顔をされた。恥ずかしいことに、翻訳屋にならんとして視野狭窄に陥っていた。

そんな日本語文学がどうのというより、仕事の関係の勉強をしたらどうなんだという、ある意味まっとうな、多少は傲慢な気持ちがあった。それというのも、二人とも少なくとも読むまでなら日本人と同等かそれ以上の能力があったが、こと技術的なことには感心がない。日本語は読めるが、技術文書の理解は怪しい。もっとも、それは字面でしか翻訳しない日本人の翻訳者と似たようなものでインド人だからというものではなかった。
翻訳の質の違いがあるとすれば、どれだけ言葉に敏感かということと、これがもっとも大事なことなのだが、資料や専門用語の辞典で用語をチェックの手間を惜しまないという二点になる。その二点の基は、いい仕事をしたいという人としてのありよう、生き様にまでいきついてしまう。ただそれでメシを食うとなると、そう簡単に言い切れないところがもどかしい。

在宅で仕事をしていたインド人は内勤のインド人よというより、全ての人と一線を画して違っていた。インド工科大学(IIT)を卒業した後に東北大学に留学してLEDの研究で博士にまでなった人だった。IITは十万人に一人と言われる競争率でマサチューセッツ工科大学(MIT)より難しいと言われている。何を話しても、ちょっとしたエリート風が気にはなるが、ことばにキレを感じる。畑違いの拙い理解で話をするのが怖かった。
それほどの人材が就職した日本の大手半導体メーカでは生きなかった。Aさんから聞いた話では、新入社員としてどうでもいい仕事が多いのと、年功序列の文化になじめなかったらしい。三十後半でアル中になって、翻訳で糊口を凌ぐ生活になってしまっていた。留学先がアメリカで、アメリカの会社に就職していたら、そんなことにはならなかったと思う。ことの詳細は知らないが、日本社会のマイナス面が出てしまったのだろう。

そんな彼の仕事は、当たり外れが大きかったらしい。そこそこの日本語であれば、きちんと翻訳する気にもなるのだろうが、あまりにだらしのない原文だと、それを整理して日本語で書きなおして、まともな英語にとう気にならない。就職した職場でもあやふやな話や書類にうんざりしたことがあるのだろう。だらしのない日本語がイヤな思いを蘇らせたのではないかと思う。

仕事の出来る人にできる環境を与えられるかどうかがマネージメントの責任なのだが、翻訳業界にはその作業をし得る人や組織はおろか、そんな文化など考える人すらいない。すべてが翻訳者まかせ、それもソシアル・ドロップアウトでしがらみのない、人とのかかわりを最小限にして、生きてゆきたいと思っている人たちに、意に感じて仕事をしようと思わせる環境条件を提供しなければどうなるか。こう書いてありましたという翻訳が上がってくる必然が、それは可能性ではなく、完璧なまでの必然がある。

翻訳業界は何をどうしたところで「悪貨は良貨を駆逐する」ところで、舌の肥えた客が料理人を料理人にするようにはゆかない。 どうしたものかと考えてゆくと、日本語や英語、物理や化学……それこそ日本の教育の問題というより日本社会のありようとうのか文化の問題にまでいきついてしまう。
2016/12/04