傭兵稼業から足を洗って

今までと似たようなことを、似たようなやり方で、似たような結果を出していては傭兵家業は務まらない。大過なくオペーレーションしていれば済むような生易しい家業ではない。限られた時間のなかで、製品開発でも市場開拓でも、従来とは一線を画して実体のある有意のもの、次の成長の基盤となるものを、関係者が実績として認めるものを叩きださなければならない。そんなことをあちこちの会社で、違う市場相手にやってくれば、それなりの無形資産もできてくる。

無形資産の多くが、言ってみれば特定のアルゴリズムを使った用途限定で使うツール群のようなもので、状況に合わせて実行プログラムを書き上げる要素として使用する。手持ちのアルゴリズムにしてもツール群にしても、以前に遭遇した状況に合わせて書き上げたプログラムでしかない。特殊状況にしか使いようのないものもあれば、新しい状況に対応するために、何度も改良を重ねてきた標準的なものまである。状況が違っても、ちょっと手を入れれば使えるものもあるが、なんでこんな些細な違いで機能しないのか説明のつかないものも多い。

次の声がかかれば、それがやり甲斐がありそう=やばそうなら、新しい戦場に移るのを常とした傭兵稼業。何時までも同じところいるわけじゃない。渡せるものは全部渡して、「あとはよろしく」になる。どこにいっても、新しいアルゴリズムの開発に必須なツール群の使い方。。。いつでも誰にでも喜んで提供してきたが、そんなものを作らざるを得なかった状況、作ったときのリソースの限界から作りきれなかった部分、何と何をどう組み合わせてどう使い切るのか、どこまで使えるか説明されても、使ってみなけりゃ分からない。まして根幹の部分は作った本人でなければ分からない。

招かれて行った先に招いた傭兵が持ち込んだもの−市場の見方から、市場における自己定義から始まって実業務のありかたからやり方まで、そこでそれまでしてきた仕事の仕方に似たものがあることは希で、一線を画して価値あるものを求めようとするとき、従来の考えに固まった人たちはたいした助けにならない。助けにならないだけならまだしも、現状を維持したいという漠然とした生物としての感情から障害物になることが多い。いきおい主要な作業は傭兵が自らやらなければならないことになる。

こんな仕事の仕方をしていれば、事務所にでて仕事を始めたとたん職業人としてのスイッチが入ってしまう。時間から時間の仕事でもなし、まして上手な時間の潰し方など、教えられてもできない。そこには定型業務に近いものもあれば、定型業務にせんがための業務もあるが、多くが何をから始まって何をどうしてゆくかという段階の試行錯誤の繰り返しになる。

一度にあれこれを平行して、中には互いに相互補完的に進んで行く。あれをやって、これを。。。短期集中の処理が必要なピークものの優先順位をつけて、ベースロードとして処理を流して行くものに分ける。プロセスごとに一時の緊張とリリースの繰り返しが毎日続く。特別な事情でもなければ個々のプロセスの完了を目指した深追いはしない。やらなければならないことが山のようにあるなかで、今日という一日に限ってでも深追いすれば寝る時間がなくなる。そこそこの時間でぱっと切り上げて引きずらない。仕事を家には持ち帰えらない。家では明日の、将来の仕事に向けた準備のようなプロジェクトがある。

こんな生活をしていれば職業人としての緊張感もあるし、充実感もある。バタバタして一日が、一週間が、ひと月が終わってしまう。仕事は充実しているし、家庭もある子供も育っている。社会人として人並みの(?)仕事と生活がある。一端の社会人としての責任は果たしているとだろうという気にもなる。十分じゃないかと思う一方で、これが社会人というのか一人の人としてのありよう、社会に貢献できているのかと気になる。職業人として充実していて個人の生活がフツーに営まれていれば社会人と言えるような気がしないわけでもない。多分、そんなものなのだろうし、誰もそれ以上を求めないだろう。フツーなら、それ以上を求める可能性すら考えないかもしれない。

何を求めているのだと訊かれても、簡単に答えがでてくる訳でもない。自分でも分からない。求めるものなど何もないかも知れない。何もないかも知れないからといって、では傭兵稼業を止めたらどうなるのだろう。何が残るのか?仕事をするためにさまざまな努力を繰り返し、それなりの能力を培って、それなりの無形資産を作り上げてきた。でもそれは仕事をするために価値があるのもであって、仕事しなければたいした役にも立たないものばかりではないのか。

仮に仕事をする、できるというのが社会人としての必要条件だったとして、仕事をしなくなったら、社会人でなくなるわけでもないだろう。仕事を止めるということが、そく生物的な終末を意味するわけでもなし。では仕事を止めたら社会人でなく何人なのだろう。仕事をしなくても、自分は自分で変わらない存在としてあるはずなのが、仕事を止めると所属組織も組織の中での立場も何もかにもなくなる。なくなったときにはじめて裸の自分が、組織を通してでなく、直接社会と渡り合う自分がいるはずではないのかという、今日明日には答えがないだろうが、漠然としていても、かなり緊迫した自問がある。仕事を離れた自分、傭兵稼業から足を洗った自分は一体なんなんだって。答えがあるのかないのか分からない。それでも、たとえぼんやりとしていても答えがあるはずだろうと思う。答えがなかったら、自分がないという訳でもないのだろうが、そりゃない。自分は、死ぬまでなくならない。
2016/6/5