リーダーの在りよう−マイルス・デイビス(改版1)

十代の後半からモダンジャズが好きで聴いてきた。三十過ぎてクラッシックを聴き出したが、それまではモダンジャズだけだった。楽器はやらないし歌も歌わない。音楽はただ聴くだけの知識と理解。何を知っての話でもないが、モダンジャズのメインストリーマーのありようがリーダー(ビジョナリー)の在りようと重なる点が多いと思っている。

巷には様々な分野の評論家がいて、ジャズの世界にも十分すぎる評論家がいる。玄人はだしの知識をお持ちの方々もいらっしゃる。何をしてモダンジャズかという面倒な話はその方々にお任せするとして、ここでは勝手な個人の理解と思いから話を始めさせて頂く。
第二次大戦がジャズを踊るための音楽から聴くための音楽へと進化させる環境を作った。進化?何を大げさなと思われるかもしれないが、当時としては一線を画して違う世界の始まりだった。
音楽は本来聴くもので、なかには踊るためのものあるが、それはあるということに過ぎない。人に踊ってもらう音楽には聴いてもらう音楽に比べて演奏の自由度が少ない。踊るための音楽では、人間の身体能力をもってしてついてゆける単調なリズムの繰り返しが要求されるが、人には身体能力を超えた複雑な音楽をも楽しむ能力がある。

第二次大戦が始まるまで、ジャズの多くはダンスホールで人に踊ってもらうための音楽だった。戦争が始まってダンスホールに新たに税金がかかるようになったのと、楽団員が兵役に取られて楽団(ビッグバンド)を維持できなくなっていった。そこに、若手ジャズメンが少人数のグループ(スモールコンボ)で、自分たちの楽想を伝えるための、聴いてもらうための演奏を始めた。ここからモダンジャズへの進化が始まった。

ダンスホールで人に踊ってもらうためのビッグバンドによる演奏には、踊ってもらうための音楽の制限があるから、個々のミュージシャン(たち)の楽想を伝えるなど可能性としてもなかった。よい演奏とそうでないもの、メリハリのありなしはあったにして、似たような演奏の繰り返しから一歩も出れなかった。これがジャズとしてありつづけるのであれば、ある意味安定したというのか、変わり映えのしない平和な時代が続いていったろう。

自分たちの楽想を演奏にとなったとたん、ジャズメンの間で新しい楽想、新しい演奏方法の開発競争のようなものが大きなうねりとしてでてきた。常に新しいものを求めて切磋琢磨と緊張がジャズをモダンジャズに進化させた。
もっと新しい楽想を、もっと自由な演奏を、もっとスリリングはアドリブをはいいが、これが始まると、似たような演奏を繰り返せば、マンネリと言われ。他人の演奏に刺激されて、似たような演奏をすれば、イミテータと言われる。聴衆に迎合した演奏をしようものなら、ジャズメンの世界からコマーシャリズムと揶揄される。殻を打ち破ろうとして、新奇なことをすれば、それがジャズ界で次のありようと、少なくともその一つとして認められでもしないかぎり、奇をてらってと無視される。たとえ多くを望まないにして、モダンジャズの世界でメインストリーマーとして活躍し続けるのは、余程の人でもない限り難しくなった。

そんな疲れるモダンジャズの世界では、新しいムーブメントを作ってモダンジャズ界をけん引できるのは、いいところ三年程度で、次の人にとって代わられる。そこで、マイルス・デイビスは、常に新しい楽想と演奏を作り上げ、十年以上に渡ってメインストリーマーとして活躍し続けた。本来が演奏する人にとっての自由な楽想と自由な演奏が前提のモダンジャズ、聴衆がそれを受け入れ、ジャズメンの世界で評価され、多くのイミテータを生み出して初めてジャズ界をけん引するメインストリーマー足り得る。

イミテータ―がいなければ、どの世界でも新しい在りようをつくりだすムーブメントにはならない。ムーブメントは、ムーブメントのきっかけを作った人によってだけでつくれるものではない。きっかけをつくる人がいなければ何も始まらないが、きっかけが大きなムーブメントになるには、こういっては失礼になるかもしれないが、しばし二流三流の人たちーオリジナリティに欠けたイミテータ、この群れのような人たちがいなければならない。

マイルス・デイビスは次の楽想を思い浮かべるイマジネーションの才に恵まれていたが、それだけで十年以上に渡ってモダンジャズを革新し続ける新しい楽想や演奏法を生み出せた訳ではない。新しいものを生む何かのきっかけを得るためにも、そのきっかけをかたちにしてゆくのにも、その過程を実験するためにも、孤立した自分だけではできない。自分から生まれたものもあれば、サイドメンから啓発されてもの、さらには、既に新しい楽想や演奏方法を打ち出した、あるいは打ち出そうとしている人をサイドメン(パートナー)に迎えることで、新境地を開いて行った。

どんなに優れたリーダーでも自分だけでは、何かをできたとしても、できたまでで終わってしまって、次から次へとムーブメントをつくりだせるわけではない。人との交流、しばしぶつかり合いのなかから、次のありようを思い浮かべ得るか、それを活かしてかたちにしてゆけるかが問われる。
こう言うと、人との関係を気にするあまり、もっとも大事なことを忘れる人もいるかもしれない。全ての始まりは自分自身にある。自分は何なのか?自分に何があるのか?何もなければ、他人からの刺激を活用することもできないだろうし、ましてや人任せで新境地など開けるわけがない。もし、運よく何かが起きたとしても、長続きはしない。
リーダーとは自分の能力から始めて、思い描いたことの実現に向けて、周囲の人たちや環境を活用して、自分自身を超克し続ける熱意と才能のある人たちのことだろう。
2016/8/21