翻訳屋に(1)

東京高裁で争われていた活動家仲間の身分保全の裁判で証言した。それまで会社側の言いたい放題だったのが、駐在員上がりの証言で裁判の趨勢がひっくり返ってしまった。誰の目にも、会社の主張「駐在員は将来の幹部候補である」が虚偽だと分かってしまった。受け手のなくなった会社が示談を言い出して裁判が終わった。

高裁にまで行って会社にたてつく証言をした従業員の処分を考えていたと思うが、極端な左遷をすれば、また裁判になるかもと恐れていたのかもしれない。何も起きる様子がなかった。すでに技術屋の道から大きく外れて、海外支社との技術的な障害対策の連絡雑用係りをしていた。これ以上どのような左遷があるのか興味はあったが、そうそうに転職するしかない。

七十九年、インターネットなどという便利なものはない。職探しをしようにも、どうしていいのか分からなかった。イエローページか何かで見つけて、人材紹介会社数社に登録した。工作機械という古典的な製造業の将来に見切りをつけて、サービス産業に転身できないかと夢をみていた。機械メーカの社員だが、している仕事はクレーム処理――海外拠点からあがってくる障害を解決すべく工場中を走り回っていた。業界は第二次産業だが、仕事は第三次産業(サービス業)だった。製造業ではただの便利屋すぎないが、サービスを本業とする企業なら、本業じゃないかと考えていた。

面接で聞かれるままに職歴を伝えたら、頂戴した評価は「エンジニアというより、チェンジニア」ですねだった。確かに油職工になりそこなったチェンジニアでしかない、それでもプライドの欠片は残っていた。人材紹介会社からでてくる話は外資機械メーカの日本支社のフィールドサービスだった。まがりなりも一部上場、従業員二〇〇〇人以上の老舗の会社から従業員二三十人の名前も聞いたことのない外資へ。
運よく採用されたところで、うまくいくかどうかは、やって見なければ分からない。ただ、うまくいったところで、似たような業界で似たような仕事。何のための転職なのか?残っていたところでろくなことはないが、首になる可能性はない。それでも思い切って、チャレンジする価値や意味があるのか?

田無の実家から我孫子の本社に通っていた。別の人材紹介会社の面接に行くにために一日有給をとった。午後早い時間に都心で面接が終わって、そのまま実家に帰ってもよかったが、なにをするでもない時間がある。丸ビルにあった輸出業務担当の子会社に立ち寄った。

世間話をして、東京駅に向けて丸ビルのドアを出ようとしたら、駐在前にマニュアルの翻訳を依頼していた翻訳会社の営業マンにばったり会った。久しぶりだったこともあって、立ち話になった。恐る恐る「オレみたいな人間、翻訳見習いで雇ってもらえる可能性、ありますかね?」と尋ねた。「いいんじゃないかな、一度遊びにおいでよ」「社長と話してみれば……」

営業マンを通して翻訳会社の社長に時間の都合をつけてもらって、相談にいった。営業マンに言った言葉を繰り返した。「オレみたいな人間、翻訳見習いで雇ってもらえる可能性あるものなのでしょうか?」「明日からでもいいですよ」
明日から?まさか、あり得ない話と信じなかった。

それから一年近く経ったが、仕事が見つからない。会社には見切りをつけていたし、技術屋になりそこなった自分にも見切りをつけていた。一日も早く転職したいが、行き先がなければ居続けるしかない。一年前の「明日からでもいいですよ」が頭に浮かんでくる。

帰国してからも、夕方、九段下にあった英会話の学校には行き続けていた。勤務地は我孫子、いくら急いで行っても一時間目が終わるころにしかつけない。週二日は授業で残業できない。職工さんの文化もあって、英会話の学校にゆくなど、いったい何を考えてるんだ、あのバカはという目でみられていた。残業が当たり前のところで、ほとんどの人が毎日二時間ずつしている。みんなと同じような残業時間でないと、気まずい。週三日は三時間残業して辻褄を合わせた。

それにしても田無から我孫子への通勤がきつい。工場の朝は早いから、六時前の電車に乗らなければならない。英語の勉強をしようにも通勤だけでへとへとになってしまう。将来のことを考えたら、なんとかして勉強も出来る都心の会社に転職して、英語の勉強を継続しなければという思いがつのる。

一年以上前の口約束でもない「明日からでもいいですよ」にすがる気持ちで、また翻訳会社の社長に会いにいった。「一年も前の話なのですが、まだ有効でしょうか?」「ええ、明日からでもいいですよ」

拍子抜けした。なんで雇ってくれるのか分からなかった。「翻訳の仕事ははじめてなので、仕事ができるまでは給料なしで勉強させて頂ければいいです」「実家から通ってますから、メシくらいどうにでもなりますし」「金もないと勉強もできないでしょう」「多くはないでけど、それなりには出しますよ」「月二十万円でどうでしょう」

びっくりした。工作機械メーカは昔ながらの日給月給だった。手取りは、基本給+勤務給+残業手当ー所得税や各種保険料―組合関係費―闘争積立金―住宅組合掛け金(社員寮に入るための組合に入らされた)で決まった。年末年始やゴールデンウィークのように祝祭日が続くと勤務給が減る。十年務めて八月の手取りが、忘れもしない一二八、〇〇〇円だった。田無でうろちょろしてもそのくらいの金額にはなったと思う。

翻訳屋に?自信はなかったが、たいして不安もなかった。一所懸命やればなんとかなるだろうって、辞表を出した。辞表を出すのがこれほどすっきり、さっぱりした気持ちにさせてくれるのを知った。出して、もう一つ驚いたことがあった。
2016/10/16