翻訳屋に(2)

出てゆく先が決まれば、長居は無用。退職日を一か月後にして辞表を出した。上司はニューヨーク支社で上司だった人で、一年遅れで帰任していた。海外技術課でニューヨーク時代の上司と部下の関係が復活した。課長はヨーロッパの駐在上がりの純粋というのか、まじめすぎる人で、いつも正論で押し切ろうとして関係部署とのいざこざが絶えなかった。

上司は技術屋としての経験や知識以上に社会人として良識のある人で、大学さえでていれば間違いなく役員になっていたと誰もが思っていた。ニューヨーク時代に本社の仕事のだらしなさに憤慨していた人が、本社の担当窓口として海外支社との連絡をする立場になって、本社工場の関係部署の体たらくに呆れ果てていた。
外れた駐在員だったのが、問題を解決するために関係部署を走り回っているのをみて、ニューヨーク時代には想像もできない、手の平を返したような評価をしてくれた。権限はあっても、責任という意識のない、どうしようもないヤツらを相手に、よくイヤにならずにやってるなと呆れていた。

堅物の課長に辞表をだすより、係長に出す方が気が楽だった。まるで来週の水曜日(定時退社を奨励していた)に有給をとらせてくださいという軽さで出した辞表をみて、なにもなく受け取ってくれた。便利屋で走り回るだけの仕事を一所懸命やっているのを見てきて、辞めた方がいいと思っていたらしく、引き留める言葉はなかった。十日ほどして、二人だけのときに、係長から、「お前の辞表が一週間早かった」「後一週間遅ければ、オレが辞表を出していた」「オレも転職先を決めて明日にも辞表を出そうかと思っているところに、お前に先をこされちゃった」「二人して辞めるわけにもゆかないから、オレは残ることにした」「どんな仕事をするのか分からないけど、お前なら何でもやってゆける、頑張れ」

辞表を出して翌日には、課長からも似たようなことを言われた。二人とも、辞められるなら、次の仕事があるのなら、辞めた方がいい。残るところじゃないということでは同じ意見だった。仕事でお世話になっていた品質管理部の課長と係長からも、辞めるか?よかったな、新しい仕事、頑張れよと言われた。

親しくしていた同期入社はいなかったが、それでもたまに一言二言言葉を交わす高専卒の何人かには、辞めることを伝えた。いつ辞めてもおかしくないヤツが辞めるだけなのだから、ニュース性はないはずなのに、多分羨ましさもあってだろうが、ニュースになった。同期入社のが一人、また一人と事務所に来た。「辞めるんか」、「いてもしょうがないだろう」、「そうだよな、俺たちここにいても先は知れてるしな」、「ところで辞めて何するんだ」、「ここでは裏方の仕事を主業務としているサービス産業に転進する」、「思い切ったな」、「自然の流れだ」……何人もが来て似たようなやり取りをして帰っていった。
話をしに来た同期入社のほとんどが自分も辞めたいと思っていた。どうしていいのか分からないなかで同期の一人が動いたことに興味あってのことだが、サービス産業という言葉すら耳慣れなかった時代、誰も辞めた先のことを想像できない。
仕事で口をきいてくれる人たちは、「仕事決まったか、よかったな」「がんばれよ」と転職を喜んでくれた。喜びの後ろに次の仕事が見つかって羨ましいという気持ちがにじみ出ていた。構造不況のなかの朽ちた名門、誰も将来があるとは思っていない。そんなところでも、思っているのか、思おうとしているか分からないが、言動からは将来があると信じているように見える人たちもいた。素面の目でみれば、何をどうしたところで沈んで泥船、将来などありっこないところでも、そこでいい立場にいる、いられる人たちにとってはいい船なのだろう。 外れた人材、会社としては辞めて欲しい人材のはずが、スッと辞めさせてくれない。これには正直驚いた。まるでヤクザの足抜け騒ぎだった。役員まで出てきて、ヤクザのような口調で言うに事欠いて「会社として十年以上投資してきた。これから回収になるのに、辞められては困る。辞めさせない。ニューヨークに戻りたいなら来週にでも戻っていい。やりたいことをやらせてやる」
「何が投資だ、馬鹿野郎、お前みたいのが役員やってるところで、これ以上の滅私奉公はごめんだ」思いながら、「ありがとうございます」に続けて、「やりたいことをやらせて頂けるのであれば、辞めさせてください」同じことを言われて、同じ返事を繰り返した。
自社の生産工場しか頭にない役員に、これからの日本社会のありようなど言ってもしょうがない。あんたのような単細胞、頭の乱視が経営しているところに将来があるとは思えないから辞めるんだとも、今だったら言ってるだろうが、言えなかった。

技術系トップの専務を筆頭に最大学閥で大きな影響力をもった旧帝大の修士が同期にいた。そつなくやっていれば放っておいても役員は間違いない人材だった。事実、倒産したときには役員として技術系のトップだった。これが煩い。役員に説得してこいとでも言われたのだろう。
口ぶりからして他の同期の連中とは違う。同期のよしみでというより、立場が上の人間としての物言いで、「俺たちが会社を……」、「俺たちが次の……」、「俺たち」がまるで枕詞(まくらことば)のようについている。枕詞を何回か聞いて、いい加減嫌気がさした。おいおいあんたが言っているのは、「今も将来も、同期のよしみでオレが親分で、お前たちノンキャリアはオレに仕えるかたちでどうのこうの」としか聞こえないんだけどと思いながら……ちょっと待ってくれ「俺たちを繰り返すのはよしてくれ、オレとあんたは立場が違うだろう。あんたとオレの間には『俺たち』というのはない。あるのは「キャリア組みの筆頭としてのあんたと、ノンキャリアの落ちこぼれとしてのオレだ」、「それを分からずに『俺たち』と言ってる訳じゃないよな。分かってて何かの考えがあって、あえて『俺たち』と言ってるんじゃないかと思うんだが、そうじゃなければいいけど、もし多少なりともその毛があるんだったら、話すことは何もない」
2016/10/23