翻訳屋に(4)

ほとんどは日本語と英語なのだが、一口に翻訳といっても、さまざま分野がある。そのなかで翻訳が業界としてなりたつ仕事量があるのは製造業からの翻訳需要しかない。人文科学やサイエンス関係の需要は極端に少ない。いまさらシェイクスピアやギリシャ神話の翻訳はないと言っていい。
製造業では常に新しい技術を搭載した製品が開発され市場に投入される。製品を輸出しようとすれば、仕様書から始まって取扱説明書や保守説明書の英語版が必須になる。ちょっとした製造設備にでもなれば、千ページをゆうに超える書類を翻訳しなければならない。

転職先の翻訳屋は八十年代の初頭、日本で二番目のビジネス規模を誇っていた。そこには多くの外注翻訳者が出入りしていたが、品質を保つために内勤の翻訳者を十数名抱えていた。内勤翻訳者の給料は基本給と出来高の二本立てと聞いていた。ノルマを達成しなくても基本給はもらえる。これが十日あまりで、二十万円から二十七万円になった。ノルマを超えた仕事をすれば、売り上げの半分が給料に加算さる。とは言うものの、もらった仕事をこなすのに精一杯で、ノルマを超える仕事など考えられなかった。翻訳屋になれるかどうかも分からない立場で、給料の詳細など聞く気にもなれないし、聞いてもしょうがない。

きちんとした仕事を納期内に上げてくれれば、いつどこで仕事をしようが翻訳者の自由で出社しなくてもいい。それでも生活のリズムを保つためなのかベテラン翻訳者の多くは毎日出社していた。翻訳作業にコンピュータシステムが導入されたのは三年後で、まだ電動タイプライターを使っていた。翻訳室には、ベテラン翻訳者の安定した速度のタイプライラ―の音がバックグランドノイズのように響いていた。

最初は誰も彼もがすごい翻訳者に見えたが、だんだんどのような仕事をしているのか、その仕事を支えている基本的な能力が分かってくる。翻訳者は二つのグループに分けられる。第一のグループはもともとは技術屋の年配者で、しっかり自分の技術分野を持っている。営業からみれば融通のきかない人たちで、自分の専門分野とその周辺の仕事しかしない。仕事の質に間違いはないというより、間違いのない仕事をできる仕事しか受けない。そんな用途限定のできる翻訳者が二人いた。
第二のグループが翻訳者の大勢で、言語から技術翻訳に入ってきた人たちだった。なかには言語学者や英語の細分化した分野の専門家もいた。この人たちのなかには、翻訳の仕事をしながら、技術的な知識を培ってきた人たちと、技術的なことには全く興味のない、技術翻訳などしてはいけない人たちがいた。

技術的な知識を培ったとはいっても、基礎知識の欠如はいかんともしがたい。広範な領域の仕事を無難にこなす術をもってして、そつのない仕事はするが、自分の翻訳した文章が何をいっているのか分からないで書いていることも多い。この類の翻訳者が数名いた。
技術的なことに興味もなく、勉強しなければという意識もない。日本語で書いてあることを文字通り英語に書きなおして、文字数かページ数で金になればいいという翻訳者が多かった。客の技術屋が書いた日本語の原文がだらしないから、そのまま字面で翻訳したら、意味のある文章になることは(少)ない。それを字面で何も考えないでさっさと英語で書いて行くから、たまったもんじゃない。客先からクレームがついて、翻訳し直しで戻ってきた翻訳を読んだが、何を言っているのか分からない。相手はベテランの翻訳者、恐る恐る何と書いてあるのかと訊いてはみたが、答えは決まって、日本語でそう書いてあったか、辞書にはそう載っているだった。

このあたりのことを突き詰めてゆくと、翻訳とはいったい何なのかというところまで行ってしまう。原文の日本語を忠実に英語に置き換えるのが翻訳だという、英語使いの翻訳者の主張にも一理ある。ところが、原文には書かれていても、英文にはその意味を持ち込まない方がいいこともあれば、原文にない言葉を追加しないことには英文で意味をなさないことも多い。
英語の書類を手にする海外の客は、日本語の原文に何が書かれていようがいまいが、手にした英語の書類で書類の出来を評価する。翻訳を依頼してきた客と英語の書類を使う客にとって、字面の翻訳がいいのか、英語の書類としての内容の通った方がいいのか、問うまでもない。

では、翻訳を依頼してくる客が、英語への翻訳を前提としたとまでゆかなくても、読み間違いの少ないきちんとした日本語の書類を原稿として翻訳者に提供できるのか?その能力があるのか、労を惜しまない仕事をできるのかというと、否だろう。自分たちのだらしのない仕事のつじつま合わせを、追加費用を払うことなく外注先の翻訳者に要求するのは間違っている。
請負稼業の翻訳屋にしてみれば、だらしのない日本語を編集して、きちんとした文章に書き換えたうえで、英語に訳していたのでは手間がかかり過ぎてメシが食えない。ここまでくると、字面でしか翻訳しない人たちの主張に一理も二理もある。誰もボランティアで翻訳している訳ではない。

では、どのみち請負稼業、字面でさっさと翻訳して即の金になればいいじゃないかというと、そうともいいきれない。そんな仕事をしていたら、せっかくの勉強する機会を活かせないだけではく、安値競争のどうでもいい翻訳会社や翻訳者と価格競争に陥るだけになる。留学生崩れや英語に自信のある?翻訳者予備軍は増え続けていたし、コンピュータが進歩して自動翻訳が実用化されれば、真っ先に字面翻訳者は存在価値がなくなる。
だらしのない原文しか書けない客と字面でしか翻訳できない翻訳者、どっちもどっちの共犯者、どうころんでも「悪貨は良貨を駆逐する」世界に違いはないが、それでも自ら悪貨を目指すほど落ちぶれちゃいけない。

簡単で金になりそうな、おいしい仕事はベテランの翻訳者に流れて、新米には誰もやりたくない、金にはならない、調べることが多くて面倒な半端仕事が流れてくる。実家に住んで、大した給料でなくても困らない立場が幸いした。十日ほどで七万円も給料が上がったのだし、ノルマを超える仕事を目指すより、まずは勉強の時と割り切った。面倒な仕事をもらう度に、何が書かれているのかを理解するために本や資料を探した。たかが一万円か二万円の仕事のために、三千円、四千円する本を買わなければならないこともあった。毎晩のように英語と日本語の専門書を読んで自分の辞書を作り続けた。

理解できないものは、英語で書けない不器用な翻訳見習い。いつまでたってもノルマを超える仕事ができない。翻訳量だけで評価すれば、お荷物翻訳者だった。
もたもた仕事をして半年ほど経ったとき、営業から聞いた。「客から今回の翻訳は、このあいだの翻訳者に翻訳してもらいたい。その前の翻訳者は技術的に何をいっているのか分かってないとしか思えない。社内での書き直しに手間がかかってしょうがない」評価してくれる客がぽつりぽつりと出てきた。質を求める客に救われた。
2016/11/6