文才に自信でもあるまいし

仕事で電子メールを多用する。(以下、簡単にメール。)万が一、メールが使えなければ、仕事にならない時代になってしまった。パソコンが一台ぽつんとあっても仕事にならない。脆弱だが、便利な時代になった。ものを書くにも、紙に鉛筆書きでなにかというケースはほとんどなくなった。何を書くにも、パソコンの画面を見ながらキーボードで入力する。お陰で、書けなかった漢字がますます書けなくなった。それでも書けない漢字が電子メール上には、いかにも書けているかのように表示される。ローマ字で入力したものが知らなかった漢字に変換されたときは、ちょっと賢くなったような気にすらさせてくれる。IT環境さまさまだ。
ここまで便利になったにもかかわらず、行き交うメールの量ばかり増えて、情報や意思が伝わらないことがある。なかには、自分に、自社に都合のよいメール以外は無視する受け手もいるから、一概には言えないのだが、情報を伝達する、意思を伝えるために何かができるのは受信側より発信側であることが多い。 都合のよいメール以外は黙殺する人や組織、企業は驚くほど多いのだが、ここでは、この類は無視させて頂く。
情報や意思を伝える場合、発信側が意識することなく行なっていることなのだが、受信側の知識と能力を適切に推察して、どの類のことをどの程度まで、ある意味、常識としているかを想定する。この推察する能力が、発信者の情報や意思を伝える能力の大枠を決める。誰もが、何かを伝える際、特別な注意をすることなく、相手も自分と同じ知識や社会観を持っていることを前提として情報を発信する。そして、誰もが、この両者が同じという前提について疑問を発せられると、同じはありない、似ているだろうが、どこまでが共通なのかという程度の前提以外にはありえないことに気づく。
常に、こまでは知っているだろうと、相手がその知識を持っていることを前提としてメールを発信するが、発信する側が所属する社会や集団では当たり前のことが、受信側では当たり前どころか、聞いたこともない、そんなことがある、規定されていることすら考えたこともなかったということが起きる。情報発信、受信が簡単に行えるようになったがゆえに今まで以上に互いに接点など持ちようのなかった人達同士、組織や会社の間で起きる。
何度もメールを返信しあっているにもかかわらず、お互いに相手が言ってきていることが何を言わんとしているのか分からない。質問していることに対して回答がない。質問してくるのはいいのだが、質問に応えるには、その質問が成り立つ条件の部分を聞かなければ答えようがない。条件を聞いているのに、それに答えようとせずに、同じ質問をオウムのように繰り返してくる。どこにでもある話で、お互いに相手に対する不信だけでメールを“処理”しているに過ぎなくなる。
担当者にまかせておいたら、このような状態に陥って、どうにもならなくなって、よく出番が回ってきた。両者がやり取りしたメールの主要部をコピペして時系列で並べて整理して、状況を見通しよく見える状態に持ってゆくことから始めるのだが、意思の疎通が図れない人達に共通の至らない点に気がついた。
まず、文字だけで書いたメールのやり取りに終始している。相手の理解を助けるような表もなければ図もない、参考文献や資料の添付もない。しばし、伝えなければならない複数の事柄の間の整理が自分でもついていない。酔っぱらいが思いつくままに御託を並べているというほどめちゃくちゃではないにしても、相手にご理解頂こうという真摯な姿勢は微塵もない。あるいは、その能力がない。分からないのは相手のせいで、万が一にもという自省がない。(こんな手合いとは、たとえメールでではあっても関わり合いたくないが、仕事でしょうがない。)
ごちゃごちゃになった状況を鷲掴みにして、次に、好き嫌いに関係なく可能性のある結論をリストアップして、両者にとってどの結論が望ましいのか、あるいは妥協できるのかを想定する。あとは、表や図、説明を分かりやすくする補助資料を作って、Referenceとなるデータや資料をWebやなんかで漁って、。。。両者が収拾したいと、しなければならないと思っていれば、こんなことで、まず収拾がつかないことはない。
何とかして相手に伝えなければという気持ちがあれば、たとえ己の文才に−傍からは信じられないほどの−自信があると思っていたとしても、文章だけの説明から表や図を使った説明に切り替えることは簡単なこととしか思えない。ということは、表や図を作る労を惜しむ、労が惜しいと思う程度にしか、相手にご理解頂こうという気持ちがないだけじゃないかと思えてくる。まさか歌人じゃあるまいし、二、三行のメールを、ぱっぱとキーを叩いて、さっさと送って、通じない。通じない、回答がこないと文句を言う前に、しなきゃならないこと、できること、まだまだあるんじゃないか?