ブランド品(改版1)

昔、就職してちょっと経つと、高度成長期の巷の雰囲気と周囲の方々の身なりの影響を受けて、ちょっと無理すれば手の届く高級ブランド品を持ちたくなったものだが、バブルの頃には、就職前に既に海外高級ブランド品を身に着けている若い人たちも目立った。日本も豊かに、少なくとも消費文化の面では豊になったということだろうし、海外高級ブランド品を身に着けることを否定はしない。バブルの頃には、それこそ猫も杓子もという感じで、通勤中に一目で分かるロゴ付き海外高級ブランド品を見ない日がなかった。あるフランスの高級バッグメーカの売上の半分近くが日本だったと聞いたことがある。それほどそのメーカのバッグが街中にあふれていた。バブルも崩壊して、その景色が中国に行ってしまって、ちょっと寂しい気はするが日本も多少は落ち着いてきたのかなと半分ほっとしている。
ほっとはしているが、海外高級ブランド品を目にすることが減ったのは、どうも日本人が精神的?に成長したからではなく、ただ経済的に手が届きにくくなっただけらしいことを思うと、目指さなければならない豊かな社会への道のりが遠いことに多少の疲労感がある。
日本が豊になるにつれ、次から次へと今まで聞いたこともない海外高級ブランド品が日本に紹介されるというか持ち込まれた。おかげで高級ブランド品の格付け感まで生まれた。海外高級ブランド品といっても、市井の人の可処分所得が多少増えたくらいで、ちょっと無理して手の届くものはある程度の高級ででしかないことすら学んだ。
本当のブランド品は目立つところにこれ見よがしにロゴなぞついていない。身に着ける人が身に着けて、それを見る人が見れば分かる類のもの。その身に着けていると思える人が、それなりの決してブランド品ではないものを身に着けていてもブランド品らしく見えてしまう。ブランド品とはそういう類のもで、それが本来の人とブランド品の関係のあり方だろう。
昔、何かの本で読んだが、白洲次郎がまだ若すぎると避けたロンドンの紳士服屋があったらしい。貴族趣味の吉田茂が懇意にしていた仕立屋でイギリスの貴族連中の御用達の店だったそうだ。白洲次郎、決して経済的にも社会的にもその仕立屋に行けないわけではなかった。なかったが、まだまだ若輩との自制が働いていた。
若気の至りのちゃちな経験だが、似たようなことがあった。実家に外商が出入りしていた某デパートで父親がバーバリーのレインコートを買ってきた。即、同じものを買いに行った。ちょっとして今度は、母親のものと自分のカシミヤのコートを仕立ててきた。軽いし温かい。これはいいと思って出かけたら、懇意にしていた仕立て屋にたしなめられた。「バーバリーまではいいが、カシミヤのコートを着るには十年以上早い。」歳はとったが、いまさらカシミヤのコートでもあるまいしの気がある。
人にもよるし、周囲の環境もあるが、フツー誰しも社会的にそこそこの立場、それなりの年齢になって経済的に余裕があれば、つい海外高級ブランド品に目が行く。決して悪いことでもないし消費も進む。経済効果を思えばいいことだろうと思う。しかし、自分にそれを身に着けるに値する価値−社会的な立場、もっと言えば人格も含めてあるのか?多少は気にするだけの自覚と自制は持っていなければならない。上下という言い方は適切ではないと思うが、本来の人の価値(いい言葉が見つからない)は、身に着けているものより上でなければならない。
分相応という言葉は好きにはなれない。分相応以上を求める、よく言えば夢、俗な言葉で言えば欲があるから、切磋琢磨に身も入るし社会も進歩する。ただ欲から生まれた見栄からであっても、身に着けているもの、それもこれですよといった目立ったロゴがついた海外高級ブランド品が、何らかの理由で身に着けている人にそぐわなければ、その人の人格までが問われかねないことに注意すべきだろう。
中身のない人に限って、中身があるように見せたいとでも思うのか、虚勢でも張りたいのかしる由もないが、目立ったロゴの付いた海外高級ブランド品で武装でもしているような格好で歩いている。今や、日本以上に中国で海外高級ブランド品が売れているそうだから中国の人と間違われるかもしれない。なかには間違われるほどオレは私は金持ちに見えたのかと喜ぶ人たちもいるかもしれないが。
身に着けたものでしか人を判断できない人たち、身に着けていないご自身を一番ご存知なのはご自身。身に着けていないご自身をご自身でどう思っているのだろうと、歩くブランド品のような人を見る度に思う。これもブランド品の楽しみ方の一つ。費用はかからないし、ときには精神的な優越感さえ。。。
2015/1/11