チャレンジする能力

チャレンジすればまず失敗する。その失敗のなかから得たものを新たな力として、またチャレンジする。失敗しないように細心の注意を払い、最大の努力をもってしても、10回チャレンジすれば、10回失敗しかねない。でも、チャレンジし続けなければ成功もない。だからチャレンジし続けることになる。
もし、10回チャレンジして10回とも成功したとしたら、それはチャレンジと呼べるようなものでなく、できて当たり前のことをチャレンジと格好をつけて言っているにすぎない。残念ながら、そのような部下を有能な部下と評価する上司が多いのも確かだろう。何をやらせてもそつなくこなす、失敗のないサラリーマン社員が高い評価を受ける企業文化がこれからも続くだろう。
じゃあ、いつも安全サイドで失敗しないチャレンジもどきをし続けた方がサラリーマン稼業としては得じゃないか。確かに一面では、その通りと言わざるを得ない。しかし、本当の意味での、失敗しかねいチャレンジを恐れて、チャレンジもどきをし続けていたら間違いないかと言えば、これも否だろう。
変化の激しい時代だ。いつもいつも安全サイドに身をおき、定年まで、あるいはその後も安穏とやっていけるような時代じゃなくなっている。本当の意味でのチャレンジを避け続けていたとしても、長い一生のうちには、否が応でも本当のチャレンジをせざるを得ない情況に放り込まれる可能性が高い。こうなったときに、多くの失敗を経験してきた、本当のチャレンジをし続けてきた人と、チャレンジを避け続けてきた人とどっちがチャレンジする能力があるか?自明の理である。し続けてきた人の方がチャレンジする能力が高いだろう。考えてみれば恐ろしいことだ。チャレンジを避けてきたがゆえに、実はチャレンジする能力を失ってしまった。サラリーマンででしかないにしても、できればこうはなりたくないと思う。ここで言っているチャレンジとは、破れかぶれのギャンブルのような試みを言っているのではないことをご承知頂いた上での話しである。
じゃあ、チャレンジするか、しないか?どうやって決めるのか?十中八九勝ちが間違いないからチャレンジするのか?これはできて当たり前のチャレンジの延長線ででしかない。五分五分ならチャレンジするか?違う。チャレンジしてたとえ失敗しても、再起不能に陥って、次のチャレンジができなくなる可能性がないのであれば、チャレンジしたらいい。たとえ失敗しても、必ず何か拾う、新しい知識、経験を得ることを念頭においてやればいい。失敗すればなんらかの痛みが伴う。この痛みはチャレンジする能力を少なくとも保つ、あるいは高めるためにかかるコストとでも考え、チャレンジできるうちがはなと割り切ってチャレンジし続ける以外にできることはない。