直接体験と間接体験

認識論の専門家ではないので、雑な定義で恐縮だが知識にはそれを得るプロセスの違いから、直接体験に基づく知識と間接体験に基く知識の二つに分けられると考えている。
直接体験に基づく知識とは文字通り、自らが体験した、経験したことから得られる知識で、卑近な例では太陽と地球の関係がある。普通に生活していて得られる直接体験からでは、どう見ても間違いなく地球の周りを太陽が回っているとしか思えない。ところがこの認識はあやまりで、正しくは、太陽の周りを地球が回っていることを日本では小学生でも知っている。この知識は直接体験して得たものではなく、学校教育、親、友達から聞いた話、テレビ、新聞、書物、雑誌、インターネットなどから間接体験を通して得たものだ。太古の昔、文字もなかった時代は、間接体験は伝承、親、家族から聞いた話しくらいしかなかっただろうから知識のほとんどが直接体験によるものだったと考えて間違いないだろう。
人間には、時間的にも、空間的にも直接体験できることにはおのずと限界がある。今、イラク、中国でなにが起きているのか?日本にいながらにしてそれなりの知識が得られる。現場に行って直接見てきたわけではないので、この知識は間接体験で得られたものだ。さらに、科学技術の進歩に伴い間接体験ででしか得ようのない知識が急増している。DNAを、バイオテクノロジーの類のことを、量子力学のことをどうやって直接体験できるのか?現代社会では、既に間接体験によって得られた知識が全知識のほとんどを占める状態にまでなっている。全知識に占める直接体験によって得る知識の割合は今後益々減って行くことは避けられないと考えている。
こうして考えると、直接体験による知識をことさらに重要視し、自らの経験から得られた知識を振り回わし、間接体験による知識を軽視する生活態度の結果は知識が少ないと自慢するようなものになりかねない。直接であれ、間接であれまず知ることから、理解することから人間の知的活動が始まる。知りえないところからは何もはじまらない。したがって、知識の種類と量がその人間が論理的に物事を考える基礎を与え、さらに論理的に構築できる建物の質と大きさを規定することになる。豊富な知識がそのまま高い能力を意味しないのを承知の上で、あえて、極論してしまえば、人間の全人格的な能力は整理された知識の蓄積の上になりたっているものと考えて差し支えないと考えている。
これは一般論としての話だけは終わらない。企業で働くことを通してさまざまな経験を積み、経験から多くの知識を吸収し、その知識の延長線上にある知識を得ることによって一角のマネージャに成り得ると安易に考えている節がある人に遭遇することがしばしばある。 当たり前のことだが、一端の企業人、社会人たるには業務を通した直接体験によって得られる知識をはるかに超えた間接体験によってしか得ようのない広範な知識、社会認識が要求される。