夏の知り合い、冬の友人(改定1)

社会人になって十年も経つと、何かの機会に級友に会っても話題に困る。あったとしても、話題の多くは昔話で、盛り上がりも間歇的で続かない。去る者日に疎し、気が付いてみたら、知り合いのほとんどが働き始めてからお会いした方々になっていた。働き始めてからお会いできるのは、どうしても仕事に関係した方々が中心になる。仕事に関係なく、純粋にプライベートで、お互いに金にからむことのない立場での出会いは少ない。貧しい私生活が招いた結果と言えばそれまでのことなのだが、仕事を通してしか人とお会いできなくなってしまった。これは、個人の資質、人格、見識、志向、嗜好。。。によるところが大きいので、全く違った状況の方々も多いだろう。それでも、似たように感じている方々も結構いらっしゃるだろうと思う。
仕事を通してお会いできる方々は社内と社外のどちらにもいらっしゃるが、どちらも多かれ少なかれ利害が交錯する。社内の方が、お互い同じ利益共同体の一員なのだから共通の利益。。。と思うのだが、近くにいるだけにちょっとした利害の交錯が表にでやすい。その上、妙なライバル意識を持ったり、持たれたりで社外の人以上に利害関係で同じ側に立てることが少ない。そのためだろうが、お会いする機会の少ない社外の人で、お互い直接金に絡まない立場の人間関係の方が気楽な場合が多い。
随分前になるが、友人を持つのは生涯で最大の贅沢だとかいう言い草があったのを思い出した。知合いなら、相手に知合いですよねって聞いたら、まず間違いなく知合いですよって答えてくださる方が少なくとも何人かはいる。ところが友人となると、果たしているのかなと不安になる。友人とこっちが勝手に思い込んでそう呼ばせて頂いても、もし相手から“えっ”と反応が返ってきたら、どんな顔をすればいいのだろう。社交性は子供の頃からなかったし、いい歳になっても遊びもスポーツも歌もなにもない。会社での仕事も含め日常生活はなんとかやってはいるものの、隣近所付き合いの類はうっとうしいが先にたつ。趣味もないから、趣味の知合いや友人がいるはずもない。今更バタバタしたところで何か変わるわけでもないのだが、友人というぼんやりとした存在のようなものが喉に引っかかった魚の小骨のように、思い出しては気になった。
生涯の贅沢と言うくらいだから、何人もいるものでもないだろう。いても一人で、いない人も結構いるだろうと気休めとも言い分けともつかないことをしておいて、たまに思い出したように友人ねぇーが続いた。いい歳をした男がなにを高校生みたいなことを言ってるんだと言われかねないのではないかと気にしながら、会社の同僚や活動家仲間に世間話や他の話しに混ぜながら、それとはなしに友人について聞いてみた。聞きながら回りの同年代の集まりや個々人を友人という側面で観察していった。そこで、最初の発見があった。社交的な性格なのか、単に付き合いがいいからなのか分からないが、いつも明るく誰かと一緒を楽しんでいる人達とその正反対の人達の間には、知合いの数の違いはあっても、友人と呼べる人をもっているかどうかについては明確な差は認められない。
いい歳をしてそんなことを気にしていたとき、人生の分水嶺とでも呼んでもいいようなことが向こうからぶつかってきた。活動家仲間の労働争議にずっぽりはまることになった。今でもたいして変わっちゃいないだろうが、当時活動家に対する会社の嫌がらせはおよそ人間としての尊厳に対する冒涜に近いものがあった。御用提灯をぶら下げた労組に毎月組合費はとられたが何の役にも立たない。ある意味、会社よりたちが悪かった。さしもの会社も公には自らの手を汚すのを躊躇せざるを得ないことがある。そこに労組の存在理由があった。会社と労組の両方からいじめられた。そんななかで、多少でもまっとうに社会人としてありたいと願う、言ってみればしゃっちこばって生きようとしていた何人かが小集団を形成していた。
その小集団にいる、あるはその周辺にいること自体が一般世間でいう将来を捨てることを意味していた。毎日苦しいが自らの社会認識に対する疑問符を繰り返し発してはロジックで自分を説得する自分が、自分に説得され納得させられる自分がいる。いくらどう考えても他の答えがない。みんな似たような思考の反芻を繰り返していたのだろう。疎外されイジメられながらも、自分を否定し得ずに、お互いに寄り添うようなかたちでそこに踏み留まっていた。
そんななかで、自分である答えを出した。調子のいいとき、楽しいとき、あるいは何らかのことで自らの利益になると思えばは、人は放っておいても集まってくる。逆に苦しいときには、多くの人達が去って行く。 
ただ、なかには困って何らかの支えが欲しいときに支えに出てくる人がいる。出てくれば、それだけで社会的に大きな不利益を被るのがはっきりしている。それでも出てくる変わり者がいる。イジメられ苦境にいる人と一緒にいるだけでも、社会的に−少なくとも会社という一小社会では社会的に抹殺されかねない。それにもかかわらず、一緒にいてくれる人がいる。その人が友人で、それ以外はよくて親しい知合い、多くは”ただの知合い“に過ぎない。
厳しい冬が友人と知合いを峻別する。夏の知合いは何人いてもいいが、一生にうちで本当に欲しい、あるいはそうありたいと思うのは一人の冬の友人だ。
2013/9/23