「見える化」して、どうする(改版1)

最近あまり耳にしなくなったが、一時期製造業で「見える化」が流行語になっていた。FA(Factory Automation)化された現場――自動制御システムでは、作業者が目で見て、手動ですることは限られている。そんなところで人に見えるようにするのはいいが、そのあとどうするのか。「データ化」はすべきだが、「見える化」で何をしようとしているのか?と思っていた。

自動制御システム、仕事でかかわることのない人たちにはピンとこないかもしれない。巷では自動制御システムの基幹にすわるコンピュータを代名詞のように使って、コンピュータ(システム)と呼んでいる。
例をあげて、「見える化」の限界というのか、見てどうするのかという問題をお伝えしようと思う。コンピュータシステムのことで普通の人には関係ないと思われるだろうが、どうするがない「見える化」で目的は果たしていると思い込む危険性は日常生活のどこにでもあることで、製造業に限った話ではない。

植物工場の指南役のような立場にいる国立大学で植物工場ビジネスコンソーシアムの年次総会が開かれた。学長までされた名誉教授がコンソーシアムの取りまとめをしていた。集まったのは、その国立大学を中心とした植物工場ビジネスに関係したエンジニアリング会社や植物工場を構成する主要装置や機器を提供する民間企業の担当者だった。親切な園芸学部の先生のお取り計らいで、コンソーシアムの会員でもないものが、オブザーバとして末席で話を聞かせていただいた。

総会のお決まりの話が終わって、参加者の新製品や新しいアイデアの紹介になった。そこで、名誉教授から「こんなにいいもがあるのを知らなかった」「今日特別に製品を持ってきてもらった」「xxxさんの説明を聞いてほしい」
紹介された人がA4一枚のリーフレットを配布して、パワーポイントで製品紹介を始めた。製品は二酸化炭素計だった。回覧で回ってきたものを見るかぎりでは、よくできた製品だった。液晶画面に大きな数字で表示された大気中の二酸化炭素濃度が見易い。家庭用エアコンのリモコンより一回り大きく、壁に取り付けるよう設計されていた。

植物工場に限らず閉鎖された環境で二酸化炭素濃度が上昇すると、軽い酸素が上に押し上げられて重い二酸化炭素が床から上に向かって充満していく。二酸化炭素には匂いがないから、二酸化炭素が増えて酸素が欠乏しても気がつかないことがある。息苦しさなどで、異変に気がつくのが遅れると酸欠で重大事故になりかねない。植物工場では植物の育成を促進するために二酸化炭素濃度をあげることがあるが、作業者の安全には細心の注意が欠かせない。
紹介された二酸化炭素計は二酸化炭素濃度を液晶画面に表示するだけで、外部機器に測定値を送信する機能がない。仮に十メートル先の壁に二酸化炭素計が掛けられていて、人が定期的に表示を見てということでは困る。

ことは人命にかかわる。人の目に見える「見える化」では危険すぎて使えない。二酸化炭素計の計測値をコンピュータシステムに送信して、必要とする処理を自動で実行しなければならない。コンピュータシステムにデータとして取り込めば、人手を介さずにデータをいかようにも加工して、必要ならいくつもの表示器に表示することもできるし、特定の数値を超えたら、外気を取り入れたり酸素の供給をふやしたり、視覚や聴覚に訴えるアラームを発生することも特別なことではない。
計測値をデータとして蓄積すれば、植物のどの生育過程でどの程度の二酸化炭素が必要だったのか、光の強さは、そのときの温度や湿度、液肥の成分濃度はどのくらいが最適だったなど、植物工場全体の稼動条件の解析が可能になる。

人が見やすいように表示するのはいいが、データしてコンピュータシステムにとりこまなければ、必要なアクションをとれないし、蓄積しなければ統計処理などありえようもない。流行語にまでなった感のある「見える化」という言葉が、人に見えればいいまでで終わってしまって、それでどうするという知能の部分を考えることを阻害しているような気さえしてくる。

「見える化」などという言葉を日常的に聞くことのなかった時代、そんなものなくても歴史上のリーダーたちは、見なければならないことをみて、的確な判断を下してきた。そう思うと、「見える化」の先のどうするという考えのない人たちが、「見える化」までで任を果たしていると思ってしまうのではないかと心配になる。
周囲に「見える化」といっている人たちがいたら、その人たちにどれほどの「見えた後にどうする」があるのかを見てみたらいい。「見える化」が人がことをなすための必須の能力のありなしを「見える化」している。
2017/7/30