WebニュースとWeb広告

もう十年以上まえになるが、アメリカ支社の立て直しに雇われてボストンにいた。赴任して二年目には立て直しのめどもたって、少しは落ち着いてと思ったが、毎月本社の海外営業部に戻って、そこから中国とシンガポールに寄ってヨーロッパに回る羽目になった。現地の状況を把握して、三年後を見据えて、どうするかを考えるための情報集めが目的だった。

そんなことをしていれば、仕事の関係ならという限定つきにしても、お国訛りの強い話にもついていけるようになる。なんでもそうだろうが、ちょっと好くなると、もうちょっとと欲が出る。多少なりとも社会や経済に関係したことを英語で理解できるようにならなければとEconomistを定期購読した。Economistは、四十過ぎたころにチャレンジしたが、使われている言葉と言い回しに苦しんだ。週末に十時間以上集中して読んでも、毎週届くものを消化しきれなかった。

技術屋崩れが経営の立場になって、必要にせまられて経済や経営に関係する本も日本語と英語で読んでいた。おかげで、四苦八苦しながらもEconomistをためることなく読めるようになった。三年もすれば用語にも慣れて、辞書をひく頻度もずいぶん減って……はいいが、Economistの視点と論調が鼻につきだした。なんといってもそこはEconomist、読者の多くは油職工崩れには雲の上の教育を受けた人たち。当然経済的にも社会的にも認められた中流以上で、拡大する貧富の差を肯定したくなる社会層。経済や社会の問題が気になる、安定した社会を求める「良識のある」人たちが典型的な読者で、いってみれば、『文芸春秋』あたりを購読して、開明的で穏健なリベラルと自負している、「幸せな」人たちと似たような人たちだろう。高等教育を受ける機会のなかった「たたき上げ」は少ない。

視点や論調に違和感を覚えると、手にするたびに大きくなっても小さくはならない。ふくらみ続ける違和感を抱えながら読み続けて十一年、いつまでもEconomistの社会にいちゃいけないと思って、定期購読をやめた。いろいろ経験して考えてきたことを書き残しておこうと思い立ったのがきっかけだった。英語で情報や知識をあさる作業をいったん停止して、日本語の勉強をはじめた。三年近くできるだけ英語は翻訳ものも避けて、日本語で書かれたものを読み続けた。日本語がこれほどまでに勉強しにくい言語だったことを痛感したが、それなりに基礎の下地が見えてきた。

そう思ったらところに、ひょんなことからキューバがどうなっているのかが気になりだして、英語での情報探しが再開した。スペイン語をやっておかなかったことを悔やんだが、英語でできる範囲まででもと思ってはじめた。とっかかりに本を二冊読んだが、印刷物の時代でもなし、インターネットであちこちの新聞社のサイトを見ていった。プロパガンダや三面記事のようなサイトも多いが、英語で信頼できるサイトがいくつか見つかった。数週間もしないうちに、Economistで得られる情報や知識よりよっぽど広い視野で意味のある情報がえら得ることがわかった。

想像してはいたが、Economistの世界で右往左往していた十一年が、なんとももったいない時間だった。政治でも経済でも異常気象でも環境汚染……世界中の問題になること、気になることであれば、おそらくほとんどのことを、たとえ研究者が必要とする深みはないにしても、インターネットで知りえる。地震があれば、ハリケーンがくれば、デモでもテロでもなんでも速報として流れてくる。インターネットが普及し始めた頃の言い草だろうが、ネットサーフィン状態になった。ネットには昼も夜もないし、疲れをしらない。疲れて自分でやめるまで、画面には最新情報がある。

アメリカやヨーロッパの視点ではなく、中近東のカタールから見た記事、南アフリカの新聞やシンガポールの新聞に、ニカラグアの新聞、プラハの新聞、どれもこれもが素人の理解では信頼をおいてよさそうな内容に見える。それにくわえて科学雑誌のサイトからは新しい知見の要約がメルマガとして届く。いまごろになって、こんな当たり前のことに気づいてという話でしかないが、正直たまげた。

どの新聞社も一般的なニュースに加えて、社会、政治、経済からビジネスに焦点をあてたカテゴリー別に情報を分けているのだが、ほとんどは、深刻な、しばし悲惨なニュースや解説ばかりで、読んでいて涙するまでではないにしても、目が覚める。サイトは、日本からアクセスしていることをつかんでいるからだろうが、日本人向けのWeb広告がついてくる。このスポンサーのおかげで、無料でニュースを読めるわけだから、広告がどうのとはいいにくい。
それでも、深刻なしばし悲惨なニュースからかけ離れた、明るいというより場違いな宣伝がでてくると、もうちょっと配慮した広告にしてもらえないかと、いってもしょうがない一言をいいたくなる。ミスマッチの極みのような能天気な広告が、重いニュースに疲れた目には優しい。ほっと一息なんてこともある。それでもニュースが伝える生死にかかわる悲惨な状態におかれた人たちのことを思うと、とでもじゃないが、場所柄をわきまえない広告は見たくない。

そんな広告、視覚的には見えたにしても、知覚的には見えないし、見ちゃいけない。スポンサーの良識を疑われるだけの広告にどんな意味や価値があるのか。こんな、あまりにあたりまえのことを考えることもないスポンサーのおかげで、ありがたいことにWebのニュースサイトがなりたっている。
2017/10/29