諸悪の根源は集団主義(改版1)

何をどう調べても考えても、そんな結論にはなりようがないのに、あたかも真理のように主張する人たちがいる。 いつの時代にもどこにもいるのだろうが、検証されつくした科学的知見に反することを、それもしばし二律背反することを、なぜそんなに自信をもって言えるのか。どうしたらそんな主張ができるのか、どうにも説明がつかずに考えてきた。

ある日郵便受けに垢抜けないチラシが入っていた。一目でたわごとしか書いていないことがわかる。「LEDは紫外線を発して危険だから使用を禁止すべきだ。蛍光灯のほうがいい」事実は、紫外線は蛍光灯の方が多い。「蛍光灯のほうが電力を光に変換する効率がいいから省エネだ」変換効率はLEDの方が蛍光灯より二倍ほどいいから、LEDの方が省エネ。 「ノートパソコンのLED画面は紫外線を発して危険だから、小学生以下には使わせてはいけない」小さな文字でいろいろ書いてあったが、事実誤認とずれたロジックで、読んでも意味のわからないところが多い。なんでもいいから、流行ってきたものはダメだといいたいがためのゴタクをならべているとしか思えない。

ここまでの人は、変わっているか、ちょっと危ない人と無視されるだけだろうが、宗教やなんやらの集団で「進化論」を頭から否定する人たちの話は、どう聞いても、人間が営々と続けてきた科学というより全ての歴史を否定、あるいは歪曲しているようにしか聞こえない。
宇宙がどのようにして誕生したのか、物資は何から構成されているのか、重力が何に由来しているのか、科学が進歩して、人間の精神活動ですら、ちょっとした化学物質の量の違いによるのではないかというところまできているのに、なんでもかんでも神に結び付けてしまう。一つひとつ事実を積み重ねて進歩してきた科学的な考えを否定する人たちとはいったいどのような人たちなのか。

東京郊外の素のままの無神論の家庭に育った。家には仏壇もなければ神棚などあろうはずもなく、日常会話には「天皇」という言葉はでてこない。我が家での呼び名は、それでも敬意?を表してか「お天ちゃん」だった。商売柄人の出入りの多い家だった。不動産ブローカーのような自民党議員もいれは共産党も公明党も社会党も、右から左までみんないた。背中一面の刺青がきれいなヤクザもいれば、キリスト教徒もいれば創価学会もいる。天理教の人もいれば、聞いたことのない新興宗教の人たちもいた。街の雑多といっていい人たちの話が聞こえてくることはあっても、両親とも聞き流して、どうでもいい雑音くらいにしか思っちゃいなかった。

宗教心がまったくないから、キリスト教に根ざしたヨーロッパやアメリカの文化の本質的なところは理解し得ないだろうと、はなからあきらめているというか、そこまで理解しなきゃなんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただトランプという、あきれたのがでてきて、あらためて、あの人たちはいったいなんのかと気になって、ちょっとWebで見てみた。

まったくたまげる事に、どうしたらユダヤ教とキリスト教の天地創造の御託を信じられるのか不思議でならない。参考までにウィキペディアの記載をコピーしておく。申し訳ないが、研究者でもあるまいし、聖書まで読む気はしない。
<ウィキペディアの記載のコピー>
ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書『創世記』の冒頭には、以下のような天地の創造が描かれている。
1日目: 神は天と地をつくった(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができた。
2日目: 神は空(天)をつくった。
3日目: 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。
4日目: 神は太陽と月と星をつくった。
5日目: 神は魚と鳥をつくった。
6日目: 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
7日目: 神は休んだ。

トランプがでてくる背景が気になって、Webで参考になるものはないかと漁っていたら、「Why So Many Americans Don’t ‘Believe’ In Evolution, Climate Change And Vaccines」がでてきた。そこに、何故そんなことが信じられているのかがざっと書いてある。urlは下記のとおり。似たような記事がいくらもあるから、興味があれば探してみるのも一興かもしれない。
https://www.huffingtonpost.com/entry/why-americans-deny-evolution-climate-and-vaccine-science_us_5888cd7ce4b098c0bba7db84

記事によれば、アメリカ人の半数が「進化論」を信じていない。三分の一が地球温暖化の原因が、化石燃料から出た二酸化炭素だとは信じていない。ずいぶん前だが、アメリカの経済界のエライさんがテレビにでてきて、真顔で「神が作った地球の自然環境」を人間が変えられるわけがないから、温暖化は神にあたえられたものだといっていた。ここまでくると、あきれる以外に何かできることがあるのかと考えてしまう。
最先端の科学の進歩を牽引し続けているアメリカで、一般大衆の多くが科学的な知見に背を向けたまま、宗教的なゴタクを信じている。二十一世紀にもなって、いってみればいまだに天動説のような考えの人たちがいる。普通の人なら、「なぜ?」と思うだろう。上にあげた記事に、その「なぜ?」と背を向けた人たちに、どのように科学的知見に基づいた話をしたらいいのかのアドバイスまで載っている。

「なぜ?」は、一言で言えば伝統的な「集団主義」にその原因がある。社会集団のなかに年齢やなんやらなんやらで一目置かれる、あるいは大勢を占める社会層があって、その社会層の考えに従わなければ、疎外される。社会層の考えとは、その社会集団の常識や習慣と言い換えてもいい。大都会なら疎外されて不自由はしても、生きていくことに大した支障はない。ところが田舎の孤立した集団や軍隊のような集団のなかでしか生きられない人たちは、その集団が寄って立つ考えや習慣に対する疑問を口外すれば、疎外されて日常生活もままならなくなる。その結果、事実を事実として求めるより、今まで通りに疑問を呈することなく、そのまま受け入れてつき従う。そうすることで、その社会の一員として認められ、社会生活がなりたつ。神主が、村の長老が太陽を指差して、「太陽が地球の周りを回っている」といったとき、それは事実か?という疑問を口にするのは難しい。

日本人が個人より集団に価値を見出し、属している集団を個人の社会的な立場の裏づけとする考えが強いといわれてきた。曰く、在日だから、大企業の社員なら……。この日本人はというのが、何も変わることなく、まったく同じかたちでアメリカ社会にもある。人間社会があれば、必ずある集団主義で、なにも驚くことではないが、なにかにつけ、日本人の集団主義と没個性をヨーロッパやアメリカ社会と比べた話が多いせいで、アメリカにもこれほどの集団主義があることを想像しえない人たちも多いかもしれない。

アメリカの田舎町のキリスト教の呪縛の強い地域社会(共同体)で、進化論を肯定するようなことを口にすれば、地球温暖化の原因が産業化による二酸化酸素の放出だと言い出したら、どうなるか?地域社会とその常識のなかで生きている人たち、日本もアメリカもどこも似たようなものでたいした違いはない。

記事にある「どのように科学的知見に基づいた話をしたら」には半分しか意味がない。科学的知見を事実として話したところで、それを認めれば、背を向けてきた人たちは自分(たち)のアイデンティティを失うことを恐れて、反発するだけというのはわかる。では事実を見ようとしない、あるいは見たいようにしかみようとしない、その見たいようにというのが社会集団の価値観、しばし宗教だったり因習に基づくものだったら、どのようにすれば事実を事実と考え得るようになるのか?可能性としては一つしかないだろう。集団の価値観にもとづく「事実」が現実に目の前でおきていることと合致しない、そしてそれが生活上の支障をきたして、いやがおうでも認めざるを得なくなって、集団の一部の人たちが集団のありようを変え始めるのを待つしかない。

この集団の常識は、その時代の、後になってみればしばし偏見にすぎないものなのだが、世界中でおきている社会問題の多くがその常識に由来している。その常識のおかげでいい立場にいられる人たちが、自分たちのためにその常識を強化補強し続けている。
中国や韓国の反日感情の多くも、在日の人たちや部落の人たちへの偏見も、ミャンマーのロヒンギャの人たちへの迫害も、アメリカ人の多くが進化論を信じないのも、地球温暖化が神の摂理だと思っているのも、白人至上主義も、極右も、さらにいえば日本の軍国主義も根っこのところで個人の自由な考えを許容しない家父長的な集団主義にある。過労死にまでいたる習慣的な残業も集団の常識から生まれている。

集団主義とは共同体の意識と文化に他ならない。その無毒化――個人の自立を主体とした社会に移行するには時間がかかる。時間がかかるだけならまだしも、時間をかけて進んでいるとなりで、次の集団主義の共同体が生まれつづけている。
現代社会のもっとも基本的な価値観である個人の自立はいいが、それでは落ち着かない人たちも多い。自分で考えて自分で判断してという個人のありようが面倒だと思う人たちもいて、歴史的な家父長社会の規制が薄れたら、個人の確立にではなく、新しい社会集団や新興宗教に身を寄せる。
どのような共同体であれ、共同体を共同体にしている集団主義は集団外の人たちを差別し、他の共同体との争いのもとを生み出す。集団主義が社会の進歩を生み出してきたが、集団主義のなかに埋没してはいられない。できることは害の少ない共同体にしようと努力することと、集団のなかにあっても自分を保とうとするだけだろう。
2018/1/7