脱ぎ捨てた殻を持ち出されても

社会に出る前、出てから、そして三十代へと社会経験をつんで、準備不足にもかかわらず、四十あたりから、それなりに責任のある立場になってしまった。還暦過ぎてあらたまって振り返ってみれば、随分殻を脱ぎ捨てて変わってきたものだと自分でもあきれる。それは決してやましいことでも、恥ずべきことでもないと思うのだが、他人がどう思うかはわからない。

普通に考えて、二十代に大事に思っていたことやしていたことを、五十六十になってもあいも変わらずにということの方が普通じゃないだろう。それどころか、ろくに責任もない独身から結婚して子供もできて、年とった親も気になる年になって、たとえ若いときと似たような社会という風景にいたとしても、立っているところも違えば、見える景色も違う。背負ってしまったのか背負わされたのかに関係なく、どんな責任でも背負ってしまえば視野が変わる。視野が変われば、風景が同じでも見える景色が違う。

『三つ子の魂百まで』というように、もって生まれた性格や物心つく前に家庭で培われた人としてのありようの根っこのとろが、別人のように変わることはないだろう。しかし社会に出るまでと、それなりに責任を持たされた立場になったときと、まったく同じであるはずがない。日が出て働き、日が沈んで一日が終わるわかりやすい時代でもなし、『男子三日会わざれば刮目して見よ』というほど短期間に劇的に変わることもないだろうが、人は歩んできた道によって、そしてその歩んできた道から何を見て、何を志してきたかで大きく変わる。ときにはかつての、あとになって考えれば、そのときにはどうしても必要だった価値観を捨てて、次の状況にあった価値観や社会観へと脱皮をするかのように変わる。

永久就職で定年まで同じ風景を見続けてきた、かつての同僚から古証文のような抜け殻をもちだされると、『男子三日……』とは言わないが、三十年という歳月がどれほど人を成長させる、あるいは堕落さえさせる可能性ぐらい考えることがないのかと不思議に思う。
まるで衣替えのように殻を脱ぎ捨てていった二十代に出会った人から、五十過ぎた自分がいまだにその脱ぎ捨てた殻と似たようなものだと思っているかのように話をされると、なんと話をつないだものかと困惑する。困惑ならまだしも、上司だったり年上だったりで、かつてひどく下に見られていたというのか、それはないといいたいほど馬鹿にしてきた調子でしか話をしようとしないのには閉口する。
歴史的な標本のようになった人の抜け殻をもとにした話し、聞いたところでなにがあるわけでもない。まだ蓄音機の雑音のような話を懐かしがるほど枯れちゃいない。昔のように上から目線でいたいのはわかるが、こっちもだてに年をとってきたわけじゃない。実社会で生身の人間として生きてきたものが、まさか映画の世界でもあるまいし、三十年前のままで目の前にいるわけじゃないくらいのことに気がつく知恵はないのか。

目の前にいる姿とその人のかつての抜け殻との違いに悲哀に近いものを感じることがある。『三つ子の魂百まで』ならまだしも、三十年も前の埃だらけの抜け殻のほうが、目の前にいる本人より張りあがって輝いて見える。三十年間、いったい何を見て何を思って、どこをどのように歩いてきたのか、時の経過とともに成長しえたはずなのにと思わずにはいられない。

昔脱いだ抜け殻から、かつての自分を思い出させてくれるのはありがたい。『三つ子の魂百まで』はそのとおりと思うが、『男子三日会わざれば刮目して見よ』で生きてきたし、これからも生きていく。後ろを振り返って反省はするが、前に進もうとすれば前を向かなきゃならない。昔知り合った人たちとはできるだけ会わないようにしている。
2017/11/26