遠足は嫌いだ

中学校の遠足は決まって正丸峠だった。田無から西武線でいける秩父ということなのだろうが、どこをどう歩いたところで、見えるのは雑木林だけの遠足だった。目的地に小さてもいいから池か小川がもあるのならまだしも、歩き続けて着いてみれば、歩いてきたところと何も変わらない雑木林。いくら自然がどうのといわれても、元気な中学生にそんなもの面白くもおかしくない。

雑木林の中でもどこでも歩き始めれば先頭をきってとっとことっとこという、自分でも馬鹿なことをしたと思い出すたびにイヤな気持ちになる。なんであんなに一所懸命歩いたんだろうと考えると、なんとも食えない先生に対するあてつけだったかもしれないし、同級生を尻目に格好をつけていただけかもしれない。人並みに格好が気になるどこにでもいる中学生だったということなのだろうと、ほっとしないわけでもないが、なんとも情けない。

校外ということで先生方も神経質にならざるを得ないのもわかる。それでも地べたに座らされて、それこそおとなしい囚人を作業場に連れて行くかのように、きちんと隊列をつくって、牛や羊の群れじゃあるまし、人のすることじゃない。勝手にというか隊列を乱すというのか、ちょっとはみ出て、あれっと思う方に行こうものなら、いい子ちゃんいい子ちゃんした同級生にとやかく言われる。お前たちのように牛か羊の群れのなかの一匹のようなことをできるように生まれちゃいないって、ブツブツ独り言を言いながら群れのなかの一頭として歩き続けるのが遠足だった。

いい年をして、毎年飽きもせずに子供相手に似たようなことを繰り返して、飽きることはないのか、いい加減にイヤになってしまうことがないのかと、いつも見下していた。それも自分でこうと思ってではなく、文部省なりなんなりの組織の上からの指導というのか規定に沿ってやっていることでしないじゃないか。それを、いい子ちゃんしている同級生が、尊敬している人として担任の先生を上げたりして、いったい何を考えているのか、薄気味悪かった。

言われたことを何の疑いもなく、はい、そうですかって聞くのは腑に落ちようが落ちまいが好きじゃない。強制された集団行動には生理的な嫌悪感がある。毎日の学校で繰り返される集団行動がいやだった。それでも遠足ほどひどいものはなかった。遠足にいくと、まるで牧童に飼われた羊の群れの一頭に落としこめられたような気がした。群れのなかの一頭の羊なんては、いい子ちゃんたちにとっては気持ちのいいものなのかもしれないが、自分で考えてと思っているものには耐え難い。何も特別なことではないと思うのだが、あの人たちにとっては問題児だったろう。

その問題児、成績はトップ集団の中でもトップの方にいたから、話の流れで牧童に仕える牧羊犬の立場にされかねない。牧羊犬として牧童に仕えて、羊の群れを誘導するかのように同級生を仕切る。いやいやながらでも仕切ってみれば、情けないことに高揚感がある。その高揚感をうまく煽って、牧童が楽をする。楽をして穏やかな顔をしている先生をいい先生だと尊敬の念が生まれる。ぼんやりとではあっても、仕切って?何を馬鹿なことをしているのかと思いだす。仕切られるものイヤだが、誰かの手先になって仕切るのはもっとイヤだ。

こうして子供のころから集団生活の訓練を繰り返して、権力や権限に従順な、扱いやすい人種が養成されていく。選択肢は三つといっていいだろう。牧羊犬として同級生を仕切る立場を目指すか、群れの一頭として従順に従うか、それとも自分の目で見て頭で考えて解釈して、群れから距離をおいて問題児として生きようとするか。
そこまで鮮明な考えにいたらなかったにしても、中学生にでもなれば、いやがおうでも多少は考えるようになる。あるいはなれるはず。そのなれるはずをなれないようにというのが集団教育であり、集団の強制力というのか文化だろう。歴史に培われた地域社会が崩壊していって、所属する集団がなくなったとき、自分でという考えや習慣がないから、また要りもしない集団をつくって、管理されやすい人になろうとする。それが社会のありようとは思いたくはない。ましてや集団行動を躾ける遠足は嫌いだ。
2012/12/10