『忠臣蔵』に涙して(改版1)

何かないかとテレビのチャンネルを回していたら、『忠臣蔵』がでてきた。片岡千恵蔵主演のモノクロ映画、出てくる俳優の誰も彼もが若い。歳いってからのイメージと違いすぎて、一目では誰だかわからない。これ誰だったっけと思いながら観ていたら、討ち入りまでもうちょっとという終盤だった。このまま観たところで大して時間もかからないし、といい訳しながら、懐かしさもあってつい観てしまった。

『忠臣蔵』、観れば必ず涙する。涙する自分がいやで、観ないほうがいいと思いながらも、つい観てしまう。いつものことで、きちんと乗せられて、計算どおりに涙させられて、それをそのまま素直に受け止められない。「情」と「理」の絡み合いとでもいうのがおきる。おきたところで、これという答えがあるわけでもなし、嫌な気持ちになるだけで、何がどう変わることもない。

このシーンはやばいと思っても、さっとチャンネルを回したり、テレビを消せるほど器用じゃない。明日は討ち入り、大石内蔵助が亡き主君の奥方に会いに行った。差し出した信書は白紙。内蔵助と奥方の硬い表情だけの無言のシーン、計算しつくしたカメラワークが雄弁で、他愛なく涙した。
涙して、お袋から引き継いだ下町の血なのか、それとももっと深く、オレは日本人なのかとうれしさ半分、いくら理詰めで考えても、たわいなく情に流される。何をどうしたところで変えられないこともある。それはそれでしょうがない、いいじゃないかと思えればいいのだろうが、ことはそう簡単じゃない。もし、思えるのなら、思えたとして、じゃあ、オレは何を考えて生きてきたのかということになる。何を考えたところで、どうなるものでもなければ、これといった答えなどあるはずもない。それでも考えなければ自分を否定することになりかねない。

ずいぶん前だが、めずらしく映画館まででかけて『遠い夜明け』を観た。始まってすぐに涙が出て止まらなくなった。恐れてはいたが、これほどとは想像できなかった。メガネを外して涙を拭いて、メガネを戻してスクリーンを観て、いくらもしないうちに、またメガネを外しての繰り返し。涙だけならまだしも鼻までたれて、持っていたタオルのハンカチが重くなる。周りに隠しようがない。いい年して涙しっぱなし。どうにも涙が止まらない。左右の人に顔を向けるのをためらいながら、盗み見るようにして見てみれば、あっちでもこっちでも涙を拭いてた。オレだけじゃなかったと救われた。

『忠臣蔵』を観ても『遠い夜明け』を観ても涙する。でも、その涙どっちも同じ涙とは思えない。似たようなところがないわけではないにしても、同じであってはならないと思う。『忠臣蔵』、ロジックで考えれば、ろくでもないことを庶民の感情に訴える見世物に仕上げた出し物でしかない。ちょっと短気というのか、精神的に問題のある大名が引き起こした刃傷沙汰。そのせいで家臣が路頭に迷った。
迷ったなかの四十七人が、常識でみれば、逆恨みでしかない討ち入り。一人二人ではない死傷者をだして、人気の講談話のネタをつくった以外に何があるとも思えない。多くの旧家臣が苦労しながら生活を再構築していったところに討ち入り騒ぎ。なんとも迷惑な話で、『忠臣蔵』になったとたん、討ち入りしなかった人たちへの風当たりには大変なものがあったろう。

『遠い夜明け』には『忠臣蔵』のような「理」と「情」の葛藤がない。ロジックで考えて至ったところにそのまま情がある。涙して当たり前。しない方が、人として欠陥があるのではないか、と口外しても許されるどころか、支持される。自信をもって心置きなく涙できる。いってみれば国際標準のヒューマニズムがある。

日本文化から遠く離れた文化で生まれ育った人が『忠臣蔵』を観たら、多くの日本人と同じように涙するのか。何のバイアスもなしでロジックで経緯を見ていけば、逆恨みのテロ集団にしかみえないのではないか。こっちのほうが世界では大勢なのではないか。
『忠臣蔵』を観て、涙することもなく、四十七士を逆恨みのテロ集団ではないかという日本人がいたら、涙する大勢の日本人から異邦人のように見られるのではないか。日本人の情は世界の大勢から外れているのかもしれない。

日本人の性根は情に流されるところにあって、ロジックで考える能力はその上に乗っている、都合しだいで交換できるお飾りのようなものだという話を思い出す。中江兆民、『社会契約論』を翻訳したはいいが、「三味線とこの声の聞けば……」の性根は義太夫の人だった。『インターナショナル』を歌ったかと思ったら、『同期の桜』を歌いだす組合活動家。カラオケで演歌を歌っている左翼知識人。

『忠臣蔵』を観る度に情に簡単に流される。それでいいじゃないか、しょうがないじゃないかという自分に、それじゃ情けなさすぎないか、そんなことでは自分を失ってしまうだろうと叱責する自分がいる。天地がひっくり返るようなことがあっても、このどっちも自分というのは変わりやしないだろうと、あきらめている自分がいる。
2017/10/8