どこまでが自分なのか(改版1)

加藤周一をはじめとする文化人や知識人が残した本を読むと、「うんうん、そうそう」とつい先を急いでしまうことがある。日常的にこうだからこうで、これしかないと、繰り返し考えていることを、賢人が例を挙げて、凡長に近い説明をしているのに遭遇すると、隠し味を探すかのように楽しまなければと、速度を落とすこともある。おいしいものをガツガツ食べてはもったいない。内容ははっきりしている。十分わかっている(つもり)。ゆっくりしただけでは足りずに読み返してしまう。

似たような視点や論点の本を読んできたからだろう、微に入り細に入った説明でも、迷子になることはまずない。「そういうことか」と思うことあるし、まだまだ知らない世界が広がっているのを感じるが、研究者や学者でもなし、文献学のような深みにはまらないように注意している。ましてや版による脚注の違いを云々する世界に立ち入る気はない。

賢人たちの視点や論点や合理的な考えに感化されてか、気がついてみれば、自分の視点も論点も志向も結論も賢人たちが書き残したものと、これといった違いのないものになってしまっている。文化人として研究者として、あるいは広く知識人としての社会経験と油職工になりそこなったものの社会経験――見てきた風景や景色は大きく違う。社会的な立場も経験も違うのに、社会観も文化意識もなにからなにまでが似ているという以上に、まるでクローンのようにみえることさえある。

油職工のなりそこないの視点が文化人あるいは知識人として知られた人の視点と似ているはずがない。社会を鳥瞰できる立場にいたこともないし、高等教育を受けてもないものが似たような視点――たとえ景色の鮮明さやディテールに違いがあるにせよ、なにかおかしいのではないか。
それでもロジックで一つひとつ積み上げるようにしてゆけば、賢人たちがいたった高みにはおよばないにしても、似たようなところまでにはという気になってしまう。賢人たちの本を読めば、自分でも、たとえつたない文章にしても、似たようなことを書くだろうという気さえしてくる。

もしかしたら、読書を通じてまるでウィルスに感染するかのように賢人たちの視点や思想に感化されただけで、自分で考えて結論を出した気になっているだけではないのか。世俗の限られた社会経験で培ってきた地の上に薄いコーティングでもしたかのように賢人からの影響が乗っているだけかもしれない。
すっぽり被ったコーティングのせいで、コーティングを地の自分と勘違いしているだけではないか。コーティングが地にしっかり滲みこんで、なじんでしまっているからなのか、探してみても地が見つからない。地の自分などあったのか、コーティングと思っているものが自分なのかもしれない、と他人を見るように見ている自分が地なのかもしれないと落ち着かない。

賢人たちと比べるなど恐れ多くてと思いながらも、ちょっとしてみると安心するからなさけない。引き合いにだすなど、許されることではないと思いながらも、孫文を見てみれば、孫文、何を発見したわけでもない。それに気がつくこともなく、「三民主義」を唱えて独自性?左側から民族解放をうたった共産主義にあっという間に抜き去られて、歴史の残渣として残っているにすぎないではないか。似たようなことは明治維新の賢人たちにもいえることで、ヨーロッパでは共産主義革命が胎動しているさなかに、「天は人の上に人を作らず……」、時代背景やあったであろう事情抜きでみれば、絵に描いたような暢気な父さんではないか。先進ヨーロッパの思想や社会から都合のいいところをかいつまんで、いかにも自身の考えとして主張してきたのに比べれば、たとえコーティングであったとしても症状ははるかに軽い。

先人からちょろっと拝借したものを、いかにも自分が発見したかのように立ち回った歴史上の偉人を思えば、地とコーティングが気になる「健全な」巷の一私人。何があるわけでもないが、知って解釈して説明してでは終われない。最後は、だからどうした、それでどうするんだにいきつく。これがしぶとい。ここを何とかするのが自分のありようということなのだろう。

p.s.
<『読書について』―ショーペンハウエル>
こんなことを考えていると、ショーペンハウエルの『読書について』を思い出す。読んだとき、想像したこともない衝撃を受けた。最後まで読んではみたが、あなたのこの本も星の数ほどある中の、読まないほうがいいかもしれない一冊じゃないか?できることなら、だからどうしたと訊き返したい。ご注意はありがたいが、読まないですむ代替がない限り読むしかないじゃないか。巷の一私人、『天上天下唯我独尊』というわけにはいかない。
2017/11/26