広げようとする気持ち

三十過ぎて翻訳の世界に飛び込んだとき、英語にまったく自信がなかったといえば嘘になる。それなりに勉強はしていたし、工作機械メーカではもっとも英語に堪能な一人だった。ただそれは英語など能力の評価項目に入っていない会社での話で、英語でメシを食っていく世界では、何もしらない素人の自信にすぎない。
英語の能力もしれていたし、技術的な知識も工作機械とその関連に限られていた。限れた領域の上っ面の知識しかない。そんな見習いが、なんページもない半端仕事をまわしてもらいながら、英語と日本語で技術の勉強をしていった。もともとは機械屋、電機も通信も制御も傍で見ていたというだけの知識しかなかった。教科書はMcGraw-HillのInternational Student Editionだった。

たまに同僚や知り合いとでかけることはあっても、夜は勉強の時間だった。三十過ぎて、それまでとは違う業界の違う仕事、ものになるかどうかはわからないなかで、できることは自分の時間でできるかぎり勉強するだけだった。なにも特別なことではないと思うのだが、先輩翻訳者に似たように勉強をしている様子はなかった。個人の生活に立ち入るようなことは訊けないが、聞けることから想像するかぎりでは、すぐそこで遭遇するかもしれない仕事に関係することでさえ、前もって知識として吸収しておこうという考えがあるようにはみえなかった。新米の目は気になっても、何か判らないことがあったところで、いつものように英語使いの腕の見せどころかでしかなかったのだろう。

後年アメリカの制御装置屋の日本支社に転職して驚いた。そこはアメリカの会社、簡単にとはいわないが、実績があがらなければ遠からずレイオフになる。そんなところで、一握りの人たちを除いて、誰も自分の時間で自分の費用で、将来ではない目の前の課題を理解するためにですら、勉強しているようには見えなかった。
誰も一日二十四時間しかない。そのうち半分以上は通勤や仕事と仕事の関係に消える。飯を食べる時間もあれば風呂に入る時間もある。残った時間をどう使うか工夫するしかない。通勤電車の中で読む本もあれば、どうしても机に座って読まなければならない本もある。限られた時間からそれそこ一時間といわず三十分でもいいから勉強に割り振るしかない。

その努力と呼ぶのも恥ずかしいささやかな工夫をしようとしない理由はいったいなんなかと考えてきた。いろいろあるだろうが、最後は個人の自覚でしかないと思う。しかし、その自覚がどこからくるのかがわからない。まず考えつくのは、社会に対する、組織に対する、自分の仕事に対する責任感なのだが、その責任感がどこから生まれるのか。いまだにすっきりと説明できない。もしかしたら人それぞれが生まれ育った家庭の文化かもしれないと思い出した。両親が日常的に社会に関する、仕事に関する本を家で読んでいる家庭で育った人たちには、その見てきたことが普通のこととして記憶の奥底に刷り込まれているのかもしれない。

それでも同じ環境で育った兄弟姉妹でも両親と似たような精神文化を持つのか、それに反発して違う精神文化を求めるのか、当たり前の話で環境を是とするか否とするかで価値観も違えば行動も違う。誰もしなくていい苦労までしたいとは思わない。それどころか、しなければならない苦労でも、できれば避けて、他人に押し付けられればと易きに流れる。そこは人情、単純に悪いといいとも切れない。いい切れはしないのだが、自分が楽をすることで、関係者に余計な負担がかかるのをどう思うかということに尽きるのかもしれない。格好だけ、遊びが先で表面だけとりつくろえればと思う人もいるだろうが、そんなこといつまでも、どこでも通用するわけでもなし、長い人生、どこかで行き詰まる。

小さな子供がいて、奥さんも共働きで家に帰っても自分の時間をとりきれないという個人的な限界もあるだろう。遺伝なのか家庭の文化なのか、仕事に関することを家でにはならない人もいる。遺伝的形質も違えば、与えれた環境も、自分で作ってきたからそうなっている環境も人さまざま。他人がとやかくいうことでもなし、どのような状況がいいのか、人さまざまで、なんともいいようがない。

ただ、個人の限界がどうであれ、社会も組織もそれでしょうがないよねとはいってくれない。できる人、しようとする人たちが組織を突き動かして社会を変えていく。好き嫌いではない、ただの現実。ただの現実のなかから個人個人の限界が見えたとして、それを非難してもしょうがないし、するものでもないだろう。ただ結果は受け入れなければならないし、その結果を生み出した環境は同情するようものでも、してもらうものでもないだろう。何をしたところで、できることしかできないが、できることを広げようとすれば、できることが広がる。努力するというのは、その広げようとすることに他ならないと思う。
2017/9/17