不精者の衣装もち

しなきゃしなきゃと思ってはいても、切羽詰まらないと整理整頓にはならない。あれをこれを整理してと考えはするのだが、考えるまでで止まってしまう。さっさと始めてしまえばいいようなものを、しないでいい正統な理由を考えだす。苦手なのかと言い訳がましく思ったりもするのだが、どうも苦手というより、手をつけるのが、しなければと考えるのが嫌いな、ただの不精でしかないと思う。
ただ不精というと、それだけで「だらしのない人間」の烙印を押されてしまうような気がして、なんとかして不精であることを認めないですむ都合のいい言い訳はないものかと探してしまう。仮に不精であることを認めたとしても、不精には不精なりの言い訳ではない、合理的な、少なくとも自分ではそう考えている理由があるのだから、ただの不精とかたづけるわけにはいかないだろうと思ったりする。

仕事でも私生活でも、すぐしなければならないことがいくつもあって、しなくても当面困ることがないと思うことは後回しになる。心配性で、しなければならないことが強迫観念のようについてまわっているからだろうが、なんにしても前倒しというのか、期日のはるか前にし終わっている。やらなければならないなら、さっさと済ましてしまったほうがいいという気持ちが強い。
ところが、やらなければならないことをいくつも抱えているから、いつもしなければというプレッシャーをかかえていて落ちつかない。一つ片付けば、次、そして次と何をさしおいても、しなければならないことを片付けていくのだが、終わりがない。

何かが先になれば、必然的に何か以外のことが後回しになる。ここから当面はしなくてもかまわない整理整頓が後回しになる。実に合理的で、これ以外のありようがないと思うのだが、何かのことで整理整頓をしなければならなくなると、それまでは合理的だと納得してきたことが、どうもそうでもないじゃない、それどころか、整理整頓をしておけばよかったと悔やむことになる。

これ以上乱雑になると困るということで、机や身の回りの雑貨や衣類の整理をすることはあっても、とりあえず困らない程度でいいやという気持ちがあるから、時間にして十分かそこらでささっとかたづけて終わりにしてしまう。大掃除なんてのはしたこともないから、巷でいう整理整頓という大仕事は引越しのときしかない。

日常的に整理整頓しないものだから、どこに何があるのか分からなくなる。しまったときと探すときのロジックに違いがあるということなのだろう、探してもなかなか見つからない。それでも、あったはずと思えるうちはまだいい。あったこと、買ったことを忘れて、似たようなものをまた買ってしまうことがある。シャツや下着、ジャケットやズボン、スーツにしても、あげくのはてがダウンジャケットまであったことを忘れて、また買ってしまう。衣類だけならまだしも、本屋で気なる本を見つけて買ってきて、読み始めて前にも読んだことがあることに気がついて、本箱にきちんと並んでいるのを見つけたときは、鏡のなかの不細工な自分を見たようでバツが悪い。

半年前の引っ越しで、買ったはいいが包装も解いていないシャツや下着にネクタイや靴下ができた。なかには二十年以上前に買って、しまいこんだままになっていたシャツもあって、見つけたときには、あの当時はこんな流行だったのかもしれないと懐かしさがこみ上げてきた。
流行遅れだし、ちょっと若向けすぎるとは思うのだが、着ることもなく捨てるのは忍びない。さりとてそれなりの年になって気持ちだけ若いつもりで着たらどうなるんだろうと考えてしまう。でも捨てるにしても、一度は着てからと思い出す。

知り合いだけでなく、女房や娘たちからも衣装もちとあきれられている。確かに衣装もちであることは認める。認めはするが、衣装もちの衣装もちではない。買ったのを忘れてまた買うから、衣装もちになってしまっただけで、ただの衣装もちと一括りにされるのが癪に障る。
人間見てくれじゃないだろうと思うし、少なくとも自分自身にはそういっていろいろやってきた。人並みに外見や格好を気にしないわけではないが、そんなものは間違っても自分の全生活の五パーセントまで、できれば一パーセント以下に抑えておきたいと思っている。成長して総体が大きくなれば、一パーセントでもそれなりの大きさになるだろうが、格好の占める割合が大きくなるのは、自分を否定することにつながるような気がする。

たまってしまっただけで、決して衣装もちではないと思ってはいる。それでも引越しにでもなると捨てるものの多さにうんざりしながら、そしてそのなかの衣類の多いことに疲れて、傍からみれば衣装もちといわれても仕方がないのかと嫌になる。それでもこまめに整理整頓をにはならない。整理整頓と思っただけで気が重くなる。根っからの不精者ということなのだろう。不精者というとどうしてもマイナスの響きしかないが、ものは考えようで、社会的にみれば、多少は社会的消費と需要に、そして経済活動に貢献していると、へんな言い訳まで考えてしまう。
2017/12/10