書評を頂戴して(改版1)

拙著『はみ出し駐在記』に暖かい書評を頂戴した。Webで調べ物をしていて偶然みつけて驚いた。書評のurlは下記のとおり。
https://ameblo.jp/yomuyomu0/entry-12334392064.html
どなたか存じ上げないが、暖かい書評、ありがとうございます。

『はみ出し駐在記』は序文にも書いたとおり、二十代中ごろからの三年間、仕事でニューヨークに滞在したときに遭遇したことや、考えさせられたことを書き残しておこうと思い立ったのが始まりだった。あんなこともあった、こんなこともと書いていって、気がついたらファイルの数にして九十にもなっていた。ここまできたのなら、整理して一冊の本の体裁にしてみたらと思ったまではいいが、自費出版する金もなしで、電子書籍にしたという経緯がある。

それは、言ってしまえば、還暦すぎのオヤジの手習い高じての青春の記録にすぎない。ただ個人の私生活の記録ではない。ある社会環境におかれて否が応でも見える社会やそこに生きている人々の生活や思いを、観察者ではなく一当事者の視点で、できるだけ素直にと思って書いた。書かなければと思い立ったとき、忘れてしまう前に書き残しておこうという気持ちが先で、きちんとまとめて、ひとさまに読んで頂けるものにできるかどうかは後になって考えればといいと思っていた。
書いたものを後日読み返して、ああ、あのころはこんなことを思っていたのか、あんなことで頭を痛めていたのか、よろこんでいたのかと思うのも悪くはないが、書いているうちに、どうせ残すのなら、どなたかに読んで頂ければ、という気持ちがでてきた。

製造業にしかいたことない技術屋崩れで、建て直し屋のような仕事をしてきた者、文学的な素養を身につける教育を受けたこともなければ、人文系の知識も限られている。就職してからは仕事以外で何か書いた記憶もないし、もう年賀状すら面倒で出さなくなってしまった。そんな者でも、何年か経って読んで何が書いてあるのか分からなかったら、書き慣れていないらしょうがないと思うだけでは収まらない。すでにかなりいやになっているから、自分がもっといやになると思う。でも、そこまでは自分の問題でしかない。

ひとさまに読んで頂く、読む時間を割いて頂くとなると、割いて頂いた労に値する内容がなければ、読んでくださったかたに申し訳ない。そこから多少なりとも、読む価値をある内容をと、自分なりにでしかないにしても考えた。そして考えた内容をわかり易い文章にしなければと思った。何度も読み返さないと何を言っているのか分からない文章は自分で読んでもつらい。たいした内容でもないのに、ひとさまにそれは失礼に過ぎる。そのためにはと、文章の書き方などという本を何冊か読んだ。読んではみたが、何が身についたのか分からない。それは書き残した文章に表れることでしかないだろう。
仕事で英語は四十年ほど勉強してきたし、今もそれなりに続けてはいるが、日本語の勉強は中学卒業以来のこと。改めて、日本語は難しい言葉だと痛感している。

なにがある生活でもないが、ときたま書き始めるきっかけのようなものが、ぽっと浮かんでくる。それは、まるでシャボン玉のようなもので、あっと思うまもなく消えてしまう。浮かんでは消えて、そしてまた浮かんでがなんどか繰り返されて、これは書いておこうかと書き始める。書き始めて、こういうふうに書けば、こう読んで頂けるだろう、まさかこうはとらないだろう、こうとられちゃ困るとあれこれ考える。ざっと書いたものを、ときには数ヶ月も置いておいて、読み直しながら推敲を重ねていく。困ったことに、いつまでたっても推敲が終わらない。一晩たって読み直せば、また書き直しになる。なんどかそんなことを繰り返して、ええい、これなら、こう読んで頂ける、間違ってもこういう読み方にはならないだろうとなって、脱稿する。

ところが書評を読ませて頂いて、正直驚いた。まさかそういう視点もあったのか、そういう読み方もあったのかいうのを突きつけられたような気がした。トランプのアメリカと対比されるなど想像したこともなかった。
『はみ出し駐在記』に限らず、書き残しているのは、何かを調べて、調べたことを整理して、それをベースに自分の考えなりを加えたものでもなければ、ましてや取材したものでもない。あくまでも個人藤澤豊が当事者としていて、自分が見た、聞いた、考えた、感じた、思ったことから書き始まったもので、巷でいう評論とか、なんとか観察日記などというものとは違う。そこには、自分をも含めた状況を第三者の目で見る自分がいるが、自分自身にしても自分が見たのも聞いたものも当事者としての自分でしかない。すべては当事者としてのもので、第三者の観察者の視点ではない。

状況に放り込まれてか入り込んで、できるだけバイアスを排除してまっさらな目で見ようと心がけてきた。もし書き残したものが、どこかひん曲がっている、歪んでいる、何かの影響を強く受けすぎているように読めたとしたら、それは藤澤豊の歪やゆがみはあるにしても、状況のほうの歪やゆがみのほうが大きかったからだと思っている。だれも蒸留水のような無垢ではいられない。引きずっている文化もあるし、思考の慣性もある。思い入れもあれば、思い込みも、好き嫌いもある。でもそれをしても、できる限りバイアスを排除して自分のこととして書いたつもりでいる。
こんな人間がいたら、自分でもかかわりあいたくないと思う。とてもじゃないが付き合っていられない。自分という目から、立場から見られるもの嫌だし、見るのも嫌だ。一言で言えば疲れる御仁で、そばにいられたら、うっとうしくてしょうがない。それを変わっていると言われれば、その通りと真摯に受け入れる。しかし、おかしい、ひねくれ者といわれると、それは社会の方の話でしょう、と言い返したくなる。

同じ風景を見ても、その風景からどのような景色を見るかは人によって違う。立っている位置によって、社会における立場によって、ひきずっている文化や思いいれ……が人それぞれの景色を生み出す。まったく同じ人間がいないのと同じように、同じひとつの風景からも人それぞれの景色がある。
批評を読んで、ああ、この方はこういう風景をご覧になって、この人はこういう景色から読まれたのだろうと、思い上がりだと言われかねないのを承知で想像している。書評から、違う景色を思い浮かべる機会を頂戴した。あらためて、お礼をとおもう。「ありがとうございます」

ただ中には違う風景――景色ではない――を見ていることに気がつかずに、そこから引き出した景色の違いからのご意見としか思えないものもあった。例をあげれば分かりやすいだろう。
ボストンは(多くの)アメリカ人ですら、住みたくない嫌な町だと言っている。彼らの一言で言えばスノッブということになるのだが、人を見下す鼻持ちならない文化がある。アメリカ人ですら見下すところに、ヨーロッパに対する畏敬の念の裏返しのような東洋系に対する人種差別がある。どこにでもあるが、普通の人ならマンハッタンをうろちょろしても感じることがないのに、ボストンに三月も住めば嫌でも感じさせられる。
ボストンの大学町辺りをみて、アメリカ人でもできれば避けたいと思っている町をいい町だと言っているのと似ている。おそらく教育関係の人か留学生あたりの「さわりの感想」なのだろうが、自分が見ている風景とそこから引き出した景色を第三者の目でみることのない人の意見に聞こえる。
ボストンについては、拙稿『ボストン-避けたい町』http://chikyuza.net/archives/52726をご覧頂ければと思う。

アメリカの集団主義について書いたときに、アメリカは個人主義の国で、集団主義ではないとおっしゃる方がいらした。何をもってして個人主義と言われているのかよく分からないが、その方がご覧になっている風景とそこから引き出した景色ではそう見えるのだろう。
アメリカの個人主義は、あんたはあんたで、オレはオレというような、お互いにかかわらないように、干渉しないようにとういうのとは違う。二つの側面に分けた方が分かりやすいだろう。居住という点でいえば、多人種多文化がゆえに、さもすれば個人あるいは少数者として異文化のなかで疎外感に苛まれかねない。それを避けようと、しばし必要以上に人種や文化の共通性をもとにしたコミュニティへの帰属意識が強くなる。この帰属意識が他のコミュニティへの差別へとつながる。

一方仕事の場では、さまざまな文化や常識をもった人たちが一緒に同じ目的に向かって協同作業しなければならない。そこで雑多な人たちをまとめるために先にあげた集団主義とは形態の違う集団主義が人為的に作られる。そこでは集団としての評価に加えて、そこにいる人たちそれぞれの個人の能力、個人の努力、個人の実績をフェアに評価する必要が生まれる。これをみて、アメリカは集団主義ではなく個人主義の国だといれば、その限りではYesだが、しっかりした集団主義の国でもあることを忘れてはならない。

アメリカの個人主義は、野球の選手の評価を想像すれば分かりやすいかもしれない。チームへの貢献度を重要な要素としながらも、個々の選手の成績は個人のものとして評価される。
それにしても拙稿に対する評価、お礼のしようのないほどありがたい。ありがとうございます。
2018/4/29