パンは食うな、牛乳は飲むな(改版1)

三年ほど前から、朝食はホームベーカリー(家庭用パン焼き器)で焼いたパンにしている。小麦粉に砂糖、塩に牛乳と水、そこにちょっと気になる十グラムほどのマーガリン。マーガリンに入っているであろう何かを除けば無添加。パンに塗っているジャムにも何か入っているかもしれないが、買ってくるパンのように健康に気になるパンにはなっていないだろうと思っていた。米の朝食は面倒だし、冬場のシリアルは寒すぎる。餅でもいいが、餅を食べるにはどうしても醤油を使う。血圧を気にして塩分を控えなければと思うと、餅の選択肢が消えてパンになる。

<工場生産のパン――ちょっと横道>
町のパン屋さんのパンにもとは思うが、工場で生産されているパンにはいろいろな添加剤が含まれている。包装袋に書かれている原材料名を見ても、それがなんなんだか素人には分からない。健康によくないものは入っていないだろうと思ってはいるが、My News Japanの記事を読むと、どうなんだろうと心配になる。
「山崎製パン ためらわずに添加物をガンガン使う会社」と題したメルマガを読んでから、パンに含まれる添加剤を気にしだした。 メルマガのurlは下記の通り。
http://www.mynewsjapan.com/reports/1117

三月一日の昼ちょっと前、時差四時間の生活の遅すぎる朝飯。二枚目のパンをかじりながら、朝日新聞の朝刊を開いて、思わず噴出しそうになった。朝刊の一面の最下段には本や雑誌の宣伝が載っている。世間から遅れてしまったのか、それとも不勉強がたたってのことか分からないが、たまにこんな本や月刊誌、いったい誰が読むんだろうというのがある。お前が知らないだけだと言われるのが落ちだろうが、さすがにこれはないだろというのに驚いた。その「何これ?」というのが左から二番目、一番右には東京大学出版会の『文化政策の現在』に『資本主義日本の地域構造』と『現代作家アーカイブ3』が並んでいた。

その「何これ?」という本の広告、ちょっと長いが転記しておく。
「Amazonランキング 売れ筋2017/10/28調べ」
「ランキング書籍総合」
「保健食・食事療法第1位」
「重版続々!3週間で体が生まれ変わる」というサブタイトルの書名が『パンと牛乳は今すぐやめなさい!』
「葉子クリニック院長 内山葉子著 定価本体1300円+税」
「パンは腸と脳をこわす!牛乳は骨と血管を弱くする!」
「実際にパンと牛乳をやめたら、私は9カ月で体重が15 kg、腹囲が18 cmもダウンしました。(58歳・男性)読者の声より」
「マキノ出版」

本や雑誌の宣伝に「何これ?」と思うのは初めてではないし、たかが広告宣伝、何があったところで驚きゃしない。でもあまりにもタイミングがよすぎる。朝パンをかじっているときに開いた朝刊に「パンは腸と脳をこわす」。それを狙っての宣伝かもしれないと思うと、おいおいちょっと勘弁してよと言いたくなる。トイレに持ち込んだ新聞に痔の薬の宣伝とどっちがいいかなんて、ろくでもないことまで考えてしまった。
朝食にパンは、子供のころからだから、もうかれこれ六十年になる。特殊体質でもないだろうから、もうとっくに腸も脳も壊れていておかしくない。もしかしたら、来年あたり、ぽっくり来るのかもしれないが、来たとしてもパンのせいだとは思えない。もっとも、ぽっくり来たら、それがパンのせいかどうかもなく、手遅れだろうが。

もしかしたら、ノーベル賞級の研究成果かもしれない。不勉強で知らないだけなのかもしれないと多少の不安はあるが、その宣伝、巷の素人には、どうにもつじつまが合わない。パンを食べたら腸と脳が壊れるのだったら、ヨーロッパやアメリカの多くの人たちは、それこそ何百年も前から親子代々、腸も脳も壊れているということにならないか。パンを食べて牛乳を飲んでいる欧米人の方が日本人よりもはるかに骨格もいいし筋肉質にみえる。骨格もいいし筋肉質ということは、骨も血管も、パンと牛乳の消費の少ない日本人と比べて遜色がないということではないのか。
それにしても58歳の読者の男性の声はいったいなんだろう。どう読んでも、よくあるダイエットかなにかの広告のようにみえる。パンと牛乳をやめたら、消化吸収能力が落ちて、骨も細くなったか軽くなって痩せたということでもないだろうし。
この宣伝を見れば、小学生でも「そりゃ、なんか変じゃないか」「爺さんもばあちゃんも、父さんもお母さんも、おねーさんも、先生も、おじさんもおばさんも、みんなもパンを食べて、牛乳飲んで、誰かおかしくなったなんて聞いたことないし」と思うだろう。

ちょっと分からないことや気になることがあれば、ググるのが習慣のようになってしまったが、この宣伝をみても、Googleでちょっとという気にはならない。1300円も出して買う気もしないし、図書館で借りてという気にもならない。
この類の本が出版されて、それで禄を食んでいける日本の知的水準と、その知的水準で成り立っている社会の方が気になる。もしかしたら、気にするのは社会ではなくて、著者だけかもしれないが。

荻窪で古本屋をやっていた同級生との話を思い出す。そこは荻窪、神保町辺りの古本屋とは違う。学術書が売れることはめったにない。飯の種はフランス書院にハーレクインロマン、ビニ本にネット小説に毛の生えたような軽い文庫の読み物だった。そんな古本屋なのに、というよりかだからこそなのか、見栄で棚の上の方には、なんとか大学出版会というような学術書がおいてあった。
「いい本だけど、売れるのか?」
「そんなもの売れっこないだろう。分かってて聞くな」
「まともな本は売れない。売れるのはどうでもいい本で。どうでもいい本が売れなきゃ、家賃もでない」

その売れっこない本をただ(同然)でもらってきては読んでいた。どれも読んでよかったという本なのだが、先生方や研究者と巷の好事家以外が手にするとは思えない。読者を同業の学者や研究者に限定していて、読者の可能性としての巷の人たちを無視している。それは、著者や出版社が、市井の人々にはなんの意味も価値もない研究成果と考えているからなのか、それとも意味も価値もあるが、一般大衆に噛み砕いた書籍にしたところで、著者が棲息している業界や学会の評価は得られないし、一般大衆は読者になりえないと無視した結果なのか、どちらなのだろう。

学者や研究者といえども、社会から隔絶して生きているわけでもなし、一私人としては巷の一生活者。学者や研究者ともなれば、一般大衆以上に社会のありように責任があるだろう。その学者や研究者が一般社会から隔絶したところに棲息してきたことが、日本の知的水準を、社会意識を上げきれない原因の少なくとも一つになってきた。
研究成果を広く巷の人たちに伝えようとしない姿勢が変わることはないのか。変えることによって不利益でもあるのか、手間暇の割りに見返りが少なすぎるということなのか分からない。分からないながらも、将来的にも学者先生や研究者の立場をと思えば、従来からの権力や権威とのバランスを図るためにも市井の人々を抱え込むのも意味のあることだと思うのだが、いかがだろう。
2018/5/27