善意の人たち?の社会観

新興宗教の人から自信にみちた口ぶりで、思いもつかない視点からのを話を聞くと、どこでどうしたらそんな考えが出てくるのかのという疑問が先にたって、まともな相槌さえうてなくなる。あまりに純粋といえば純粋な意見に、それまで気がつかなかった負?の潜在意識が呼びおこされて、もしかしたら、自分は何か邪(よこしま)な考えに犯されているのではないか、救いがたい人間なのかもしれないと思いだすこさえある。

長年考えても、はっきり言い切れないで気にしている素朴な疑問を口にしたら、「真理を探究していらっしゃる」だとか、「それは真理なんですね」とか言われたことがある。「真理」なんてとんでもないことを考えたことはないし、何を言い出したのかと相手の顔を見てしまった。それでも、分かってくれる人がいるんだと、おだてられているのを真に受けて他愛もなく乗せられてしまった。世辞だと気がつきながらも、たとえ一瞬でも悪い気はしないから情けない。
真顔で「真理」といわれると、その言っている「真理」とはいかなるものかと気になる。そもそも「真理」などというものは、ちょっと手を伸ばせば掴めるようなところにあるものじゃないだろうし、オレが「真理」?冗談にしてもありえない。

どうも聞いている限りでは、どことなくという程度かでつじつまがあっていれば、あの人たちの考えでは、それは「真理」ということになるらしい。多少なりとも合理的な説明がつけば、あとは「信じる」気持ちという触媒がどこにでもある話を「真理」という極上の能書きの類にまで引き上げてしまう。

批判的に物事をみるというのか、反証の可能性という考えがないのだろう。信じることから生まれて埃のように積もった「真理」に囲まれた日常なのかもしれない。精神生活とまでとはいわないが、どのような生活をしているのかと、恐る恐る覗き込みたいという誘惑にかられる。かられはしても、まだまだ「真理」からは距離をおいた俗の世界が気になって、ためしに入信してという気にはならい。

斜に構えて、なんにしても説明のつかないものは、なんとか説明がつかないかと考えるのが習慣になっているものに、まるでお茶のおかわりでもだすかのように、なんども「真理」をだされると、反論しようなどという気もなくなる。適当な相槌を打ちながら、早く話を終えられないかと思い出す。

どんなことについてであれ「真理」などと呼べるものには、並外れた思考能力があって、その上に運がよかったとしても、一生に一度遭遇できるかどうかでしないと思う。それが何にしても落ちるところが、できあがった疑い得ない「真理」なら、「真理」をどうやって検証していけばいいのかなど、煩わしいこともない。そんなことしなくてすめば平穏な生活なのだろうと思いはするが、しようとしてもできるような性質(たち)じゃない。

もし「真理」として目の前に、これを信じなさいとあったら、何も考えられないのではないか。考えるということは、その「真理」といっているのもの瑕疵の可能性を、疑い深く根掘り葉掘り詮索することではないのか。あの人たちの「真理」には瑕疵などあるはずがないということなのだろうが、神にしたところで数千年も前のもの、二十一世紀にもなって、はたして瑕疵がない、時代にそぐわないといってもいいが、と誰が言いきれるのか。瑕疵のあるものは「真理」じゃないだろうし、となると「真理」などというものが、はたしてあるものなのかどうかすら怪しくなる。

「真理」がすり減ってなくなってしまいかねないまで、瑕疵の可能性を詮索して、はじめて、当面はこれを「準々真理」として置いておこうか、そして、ことあるごとにその「準々」を半分でもひとつでも取り除けないかと、検証をしていくことによって、一歩一歩近づけるかもしれないのが「真理」だろう。

「信じる」ことで生まれるかもしれない、あるいは一方的に教えられる「真理」なんてものには、数え切れない「準々」がついていて、「準々」のずっと見えない先に小さな、ほとんど読めない大きさで、恥ずかしながらに「真理」の二文字がへべりついているものに過ぎない。

疑って思考実験を繰り返してを何度繰り返しても、大見得切ってこれが「真理」だなんて言えやしない。言えるのはただそれが「真理」だと信じているからだけで、そんな信じているからだけの「真理」なんてものは「真理」どころか、ありがた迷惑なゴタクの可能性すらある。「真理」とは疑いの対象ではあって、信心の対象であろうはずがない。
ここで「真理」を「教義」と置き換えても、事情が大きく違うとは思えない。

新興宗教の人たちのことなら、さもあらんと思うしかないと諦めに近いものがある。それが教祖もいない、ただ日常生活のなかで善意の人たちが、善意そのもので見聞きしていることをそのまま受け入れるというのか、現状をそのままあたかも新興宗教の人たちのいう「真理」のよう思っているのに遭遇すると、なんといったものなのか戸惑う。
信じているというより、もっと軽い、ただ思っているだけの話を聞いて、話のうらづけを訊きながら話していくと、いくらもしないうちに、宇宙人でも見ているような顔をされる。もう何をいったところで、理解してもらえる可能性もなしで、途中でやめる。話さなきゃよかったと思う。

善意の人たちの社会観ということなのだろが、福島の放射能の話しから食料の自給の話になって、話が仲間内であれこれ転がって、「安倍首相はいい人で……」が聞こえてきたときは、いったいこの人たちは、どういう人たちなのかと思いだす。そこに「天皇陛下はお優しい人で……」から始まって、マコだかキコだとかサマをつけた名前がでてくると、なんとか話についていかなければと思う気持ちも萎える。でもこの人たちが社会の大勢だという気持ちがあって切れない。
騙されることはあっても、人を騙すようなことはないいい人たちなのだろう。でも、こっちは「まとも」ないい人だと言いたくなるが、その人たちには宇宙人もどきにしか見えないらしい。
2018/5/20