体の省エネ(改版1)

自動車の燃費や照明のELD化から空調の温度設定……、どこにいっても省エネをうたった広告やポスターを目にする。それは人々の省エネに対する関心の高さの現われで、良識にもとづいた消費文化のあらわれだろう。省エネを進めれば、経済的だし自然環境への負荷も減らせる。省エネ、誰の目にもいいことずくめなのに、自分の体のことになると、省エネとは反対にもっとエネルギーを消費できる体にした方がいいと思っているようにみえる。

どういうわけか旨いものの多くはカロリーが高い。美味しいものを、食べたいものをと思えば、どうしてもカロリーの高い食事になる。肥満が心配で控えなければと思ってはいても、つい好きなものをにいってカロリーをとりすぎる。肥満は困るが、食べたいものも食べられない人生は寂しすぎる。そこで食べても太らない方法はないものかと誰もが思う。その人々の思いを飯の種としている業界や人々がいる。

色々いわれてはいるが、極論すれば、インプットとアウトプットの関係で、摂取したカロリー (インプット)を消費 (アウトプット)してしまえば肥満を防げる。消費するエネルギーを増やせれば、増やした分だけ食べたいものを食べたいだけ食べても太らない。では消費するエネルギーを増やすにはどうするか。
答えは簡単で、運動すればいいだけで何も特別なことはない。億劫がらずに運動を続ければ、筋肉が強化されてエネルギーを多く消費する基礎代謝の大きな体になる。基礎代謝が大きければ、摂取したカロリーをたいした意味もなくエネルギーとして消費してしまう。
なんのことはない、面倒だけど運動すればいいという、当たり前の結論じゃないかと思うかもしれないが、その結論、先に挙げたいいことずくめの省エネに逆行する。それは省エネという「いいこと」に逆行するエネルギーの浪費に他ならない。

周囲の環境や日常的に使うものには省エネを進めて、自身の体にはエネルギーの浪費を求める。エネルギーを浪費する燃費の悪い体にせんがために、多くの人たちが日々さまざまなエクササイズを繰り返している。エスカレータに乗らずに階段を登る人もいれば、毎朝一駅前で電車を降りて、事務所まで徒歩でという人もいる。週末の散歩やジョギング、各種のスポーツではあきたらずに、ジムに通ってまでという人さえいる。ジムに通ってまでの燃費の悪い体づくりが、中流以上の社会層のステータスだと思っている人たちもいる。

贅肉の少ない筋肉の発達した体が望ましいというのはわかるが、日々の生活に支障のない身体能力にいくらかの余裕をみた身体能力があれば、それ以上の身体能力は宝の持ち腐れでしかない。その宝の持ち腐れを維持するために、時間と金をかけてエクササイズを繰り返す。エクササイズまでならまだしも、その持ち腐れを維持するには日常生活で必要とする以上のエネルギー消費が、その消費を賄う補給――過分な食事が必須となる。

身体と一緒にするなと叱られるのを承知で自動車を例に考えてみる。商用車の方が分かりやすい。ちょっとした荷物を運ぶだけなら、軽四輪で十分だろうし、ピザのデリバリーなら原付バイクになる。二トン車や四トン車をもってくる人はいない。そんなものをもってきたら、物を運ぶためというよりトラックの移動に使うガソリンの方が多いというおかしな話になる。
荷が勝ち過ぎて坂道を上るのに四苦八苦するようでは困るが、必要にして十分な力をだせる大きさのエンジンを搭載していればいい。トラックでいえば二トン車や四トンに相当する筋肉の発達した基礎代謝の大きな体で、原付バイクでもおつりがくる事務仕事、なんともバランスの悪いはなしで、そんなものエネルギーの浪費以外のなにものでもない。

職業や個人の志向や嗜好で、日常生活をおくるのに必要とするエンジン――基礎代謝量を大きく超えた体を必要とする人たちもいる。スポーツ選手やある種のモデルやボディビル、人さまざまだろうが、巷の普通の人たちがなぜ必要以上に大きなエンジンを求めて、必要以上に食べて無駄に消費するのか。それは豊かな社会で許される贅沢の一つということなのだろうが、あらゆるところで省エネをいいながら、自身のこととなると浪費、どこかおかしい。

発展途上国はいうにおよばず先進国においてすら飢えている人たちがいる。限りあるエネルギーや資源を有効活用するためにも、エンジンを小さくまとめて不要なエネルギーを消費することないエコな体こそが求められているのではないのか。必要をはるかに超えた消費はエコでないというだけでなく、それだけで反社会的な生活だろうし、エネルギーの浪費の多い体は反社会的な存在ということになりはしないか。
2018/7/8