「すいません」(改版1)

文字で書けば同じなのに、時と場合や言い方によっては違う意味になる言葉がある。なかには違うどころか逆の意味になるのさえある。それはなにも日本語に限ったことではない。英語やドイツ語にも、おそらく何語にでもあるだろう。英語のExcuse meやOh yahもそうだし、ドイツ語のBitteもいい例だろう。日本語には、好きにはなれないが「どうも」という、それだけをとりだしたら何を意味しているのかすらわからない言葉まである。
多民族、多文化のアメリカや低文脈言語の典型といわれているドイツ語ですら、時と場合に言い方でいくつもの意味があるのだから、高文脈言語の最たる日本語では、アメリカやドイツ以上にいくつもの、あげていったらきりがないほどでてくるかもしれない。

アメリカ人やドイツ人に混じって仕事をしていたときに、英語の「Oh, yah」とドイツ語の「Bitte」をうまく使えるようになれないかと、あとになってみれば、どうでもいいことを気にしていたことがある。きちんと会話できるように、しっかり勉強しなければならいのに、そんな瑣末な言葉にひっかかっていた。ネイティブのように使えたとき、人の手前もあって、さも当たり前のような顔をしていたと思うが、ニタっとうれしかったのを覚えている。

つたない経験からなのだが、「Oh,yah」には少なくとも四つほどの意味がある。軽く相槌をうつときの「Oh,yah」、いってみれば、「ああ、そうだよな」から半分肯定的でもあり否定的でもあるというのか冷やかし半分に「えぇ、そう」というのもある。さらに軽い否定的な意味の「ほんとうかよ?」からもっと否定的に「まさか、そりゃないだろう」という意味になることもある。このニュアンスの違いは、状況もさることながら、言い方次第のところが面白い。ネイティブでないものには、その違いが微妙で、うまく真似ているつもりでも、ちょっとしたイントネーションのズレで違う意味になって場をしらけさせてしまうことがある。

低文脈言語の筆頭にあげられるドイツ語、なんでもはっきしないと落ち着かない文化のもとにも使いようのいいBitteがある。これも四つほどの意味合いで使われる。一つは、かしこまったお礼では重過ぎるとき、親しい間柄で使うThanksのようにBitteですます。次が何かを頼むときに、何かのあとに、軽くBitteがついている。このBitteはPleaseに相当するだろう。三つ目は店に入って聞く言葉なのだが、客に対して、いらっしゃいとか、何にしますかでは、押し付けがましいというのか、はっきりし過ぎるとでも思っているのか、また返事がなくてもいやな気持ちにならないようにか、軽い言葉としてBitteがでてくる。話が聞き取れないときのBitteは「え?」と似たような働きをする。あっちでも「Bitte」、こっちでも「Bitte」と聞きいて、なんでもいいから、とりあえず「Bitte」と言っておけばいいのかと思ったことすらある。

「Oh,Yah」や「Bitte」の汎用性?にはあきれるが、それでも、日本語の「すいません」にはかなわないだろう。本来の意味は、謝る意思の表示だと思うのだが、それ以外の目的に使われることが多い。人に何かを頼むときに、軽い掛け声のような感じで「すいません」という。商用ビルのインフォメーションカウンターで、交番でおまわりさんに何かを尋ねるとき、相手の注意を喚起するために「すいません」。レストランでウェイトレスを呼ぶときにも同じように「すいません」。この「すいません」、何も謝っているわけではない。
混んだ道や狭い道を歩いていて、歩くのが遅い前の人に道をあけてもらいたいという意思表示にも「すいません」という。あまりに無神経な人で邪魔なときの「すいません」の真意は、「邪魔だから、どけ、この馬鹿」に近い。ここまでくると、本来の謝意の意味とは反対になる。「どけ、馬鹿」では喧嘩をうっているようだし、「すいません」以外になんといえばいいのかわからない。

前を歩いている人のバックパックのファスナーが空いたままになっているのを、注意してあげた方がいいだろうと声をかけるのにも「すみません」という。善意からの行動でですら、「すみません」で始まって、善意に対するお礼もしばし「すみません」ですます。

今仮に日本語を勉強してはきたが、まだまだ不自由な人が混んだエレベータに乗っているとしよう。かなり混んではいるがまだ乗れないわけではないエレベータが止まった。そこに多少の無理をしてでも乗りたい人たちが押し込んできて、後ろに押されて後ろの人を押し込んでしまった。「すみません」と言おうとしたら、後ろから「すみません」という声。謝らなければならないのは自分なのに、なんで後ろの人が俺に謝っているのかと思っても不思議はない。後ろの人の「すみません」は「降りたいから、前をあけてもらえませんか」という言う意味と気がつくまでには、言葉としての勉強以上に日本の日常生活への慣れが必要になる。
人によっては、「すいません」ではなく、「降ります」という人もいるだろうが、言葉通りの意味で考えれば、また生まれ育った文化によっては、降りたいなら勝手に降りればいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。

しばし、相手の注意を喚起するためだけに使われる「すみません」。忙しいところ、ちょっと面倒をかけるかもしれないので、そしてそのことで相手にいらぬ負担をかけないようにという日本文化が生み出したものだろう。
人口稠密な日本で、お互いに相手の気持ちを察した日常生活が当たり前の、高文脈文化の高文脈言語、時と場合によっては、特別何の意味があるわけでもない「すみません」。その必要を超えた謙遜の姿勢を嫌う人もいるだろうが、謙遜しえる自負を持てる人でありたいし、その文化のもとで生まれて育ったことを誇りに思う。
誇るべき日本文化の象徴のような「すいません」、惜しむらくは外国語として習得するには難しすぎる。
2018/2/11