ある時代の産物のひとつ(改版1)

「四十にして迷わず」などと、よくもまあ臆面もなく言ったものだと思う。よほどの人なのだろうが、迷うほどには気がつかなければならないことに気がつかなかっただけではないのか。あまりにも知らなければならないことが多すぎて、四十どころか還暦を過ぎても迷いっぱなしで、自分がなんなのかすらよく分からない。浅学非才を棚に上げての話しで恥ずかしいが、そうでも考えなければどうにも説明がつかない。考えたところでどうなる訳でもないと分かっていても、どうしたものかと思いだす。あれこれ考えていて、何年か前から十年では足りない、せめて二十年早く生まれていたら多少は違っていたのではと思うことがある。

昭和二十六年(一九五一年)生まれで、戦争や軍国日本は知識としてしか知らない。それが、もし二十年早く、昭和六年に生まれて軍国日本で育っていたら、自分はどうなっていたか。今の自分に引きずられながらも、あれこれ想像をめぐらせば、今の自分とはまったく反対の志向の人間の可能性しかでてこない。まったく志向の違う自分もあり得るということは、今の自分も生まれ育った環境が作ったものに過ぎないということになりはしないか。考えることも、することも正反対だったら、自分とはいったい何者なのか?自分に責任をもってなど、どこまで意味があるのかということになりかねない。ただある時代に生まれて育ったその時代の産物の一つとしての存在に過ぎないということなのか。

子供のころ、大正七年生まれの父親から、戦後中国人民解放軍に徴用されて従軍したときの話をよく聞かされた。話は、個人の経験という限界もあるし、あっちにとんでこっちにとんでと断片的だったが、命がけの直接体験から導きだした人生訓のような響きがあった。そんな父親を、なんとかして乗り越えてやろうと思ってはきたが、今だに越えられない壁のようなものとして残っている。その壁を感じるたびに、戦争体験も軍国日本も知識として知っているだけに過ぎないことからだろうと、言い訳ともつかないことを考えてしまう。

堀田善衛や加藤周一に鶴見俊介や吉本隆明……の本を読んでいて、あの人たちの思想や思考の根底にも、父親と同じように直接体験した戦争と戦争をした軍国日本があるような気がしてならない。誰もすべてを知りえるわけではない。戦争体験といっても人それぞれ、同じところに似たような立場でいても、そこから何を得るのか引きだすかは、人それぞれの能力や意思に志向によって違う。
違いはすれども、そこで得たもの、知識として知っているだけのものには、なにをどうしたところで想像するまでしかできない。せいぜい本やテレビなどから得た、誰かの手によって分かりやすく編集され定型化された戦争と軍国日本という知識――暑くもなければ寒くもない、匂いなどありようもない、ましてや飢えもなければ死に直面することもない、文字と映像で残されたものまでしか知りえない。

母親から、戦後も多少は落ち着いて、やっと行水のたらいを変えるようになったときに生まれてきたと聞いた記憶がある。東京の町屋で生まれて育ったが、もし二十年早く、昭和六年に生まれていれば、終戦の年には十四歳。十四歳なら徴兵で狩り出されることもなく、荒川か葛飾あたりの軍需工場に徴用されていただろう。食べるものもなく空襲のなかを逃げまわって、戦後のそれまでとは天地がひっくり返ったような騒然とした社会も経験しただろう。

貧しい職人の家系だったら、高等教育とは縁がなかったろうし、国民学校かなにかで軍国教育にしっかり染まって、愛国少年になっていたと思う。そこでは、今のように社会のありようを考えるということを考えることもなかったろう。天皇陛下を頂いた国体のもとで、ああだのこうだの考えて不安になることもない。ただただ偉い人たちの言うことを素直に聞いて、信じるべきものを信じて、アイヒマンではないが、考えることのないある意味平和な精神生活を送っていただろう。
たとえ徴用された軍需工場かどこかで左翼思想に感化されるようなことがあったとしても、戦時中の弾圧に耐えて、左翼思想を持ち続ける根性などあったとは思えない。もしかしたら、弾圧が精神の高揚をもたらして、意固地に思想を持ち続けたかもしれないが、どう考えてもその可能性は想像できない。

父親にしたところで、軍医として満州にいって敗戦とともに帰国していたら、共産主義がどうの、民主的な社会がどうのという考えは終世持たなかったと思う。母親は父親からの影響をうけて、民主的な考えに染まってはいたが、下町を女将さんの文化を体現した人だった。祖父母や親戚の人たちをみても、志向や嗜好に違いがあったにしても、下町の町内会の視点から一歩でているようなところはなにもなかった。

多くの知り合いからは左翼思想の持ち主、あるいは行き過ぎたリベラルと思われてはいるが、それは父親の中国人民解放軍での経験から得た知識の影響と社会にでて遭遇した組合活動や知り合いとの付き合いのなかから自然に生まれてきたものでしかない。いってみれば、一つの時代の潮流のなかの一つ思想、あるいはその思想に感化されたものが状況によって形態変化した社会観、もしかしたら形態変化というより矮小化したものかもしれない。

この年になってあらためて考えてみれば、自分だと思っている思想も思考も嗜好も社会観もなにもかもが、もし二十年前に生まれていたら、まったく違うもの、違うどころか正反対のものになっていたとしか思えない。
今自分が自分であることは疑いようがない。自分で自分の存在に疑問符をつけることに、さしたる意味があるとも思えないが、自分とは、せいぜい時代の思想の末端におまけについている切れ端のようなもので、なにもないのではないかと思えてくる。ただの時代の、戦時中の思想の一変種か戦後の思想の一変種。多少の違いがあったところで、これというものもない、時代がポロっと生み出した一変種にすぎないだろう。

ちょっと行き過ぎたと思われかねないリベラルだと思ってはいるが、時代が違えば、ただの一臣民、あるいはガチガチの右翼になっていたかもしれない。いってみれば粘土のようなもので、時代の風でどうにでもなる、風向きが変われば変わったで、要は時代次第、時代が時代ならというだけで、どうにでもなる人間ということなのだろう。もっとも考えようによっては、時代を生きているといえないこともないし、時代に流される自由人といえないこともないのかもしれないと言い訳がましく……。考えたところでどうにもなるわけでもなし、粘土のような人間、ただ受け入れるしかない。
2018/6/10