三十五年ぶりのクラス会

一年目から大学の教科書をつかった数学と技術系の詰め込み教育で、付いていくだけもへとへとになる。勉強が嫌いというわけではなかったのに、半年もすればもういいやと嫌気がさす。中学まではそれなりの成績だったのが工業高専でおかしくなって、毎年数人が落第と中退でいなくなった。

担任の話では、きちんと成績を評価すると、進級できるのが十人かそこらしかいない。まさか定員四十人のところで三十人落第というわけにもいかない。そこまで全体が落ちると、成績が悪いのは個々の学生のせいともいいきれず、教える側の問題になりかねない。なんともしようもなく、成績に下駄を履かせて、毎年一割ぐらいを落第させて体裁をつけていた。学校側は落第させたくないと思っているから、遊びでもなんでもやりたいことを優先して、低空飛行よろしく下の一割程度より上にいれば進級できる。必須科目の不可は一つでも落第する危険があるが、大学と違って単位制ではないから、必須でない英語や漢文で不可をもらったところで、進級してしまえば後を引くこともない。大学受験や資格試験などという目標もないから、ガリガリ勉強をと思うのはよほど変わったやつだけになる。

就職活動で忙しくなる四年生になったとき、卒業予定が二十六人しかいなかった。高度成長にかげりが見えてきてはいたが、まだまだ売り手市場で六百社を超える求人募集があった。オイルショックの前年(一九七一年)、体のいい職業訓練校に過ぎない高専がまだちやほやされていた。
一度に応募できるのは一社。採用通知がくれば、そこに行かなければならないという、暗黙の規定があった。迷った挙句に、あまり気乗りしないところに応募して、早々に内定でも出てしまった日には、よかったんだかどうだかという話になる。決まってしまった後で、もっといいところがと後悔するのではないかと誰もが慎重(?)になっていた。
そんなところで、会社訪問や面接やらなんやらで出かける旅費は会社もちというのを利用して、遊び目的で九州や四国の会社に応募して、きちんと落ちてきたのがいた。

調子がいいだけで、イヤなヤツだったが、後になってみれば、どこにでもいる遊びにたけていたというだけかもしれない。低空飛行しながら、なんでもうまくやっているのがうらやましかった。どうやったら、そんなに上手に落ちてこれるのか。訊いたところで何になるわけではないが、気になってしょうがなかった。口もききたくないのを押さえて訊いたら、
「何だお前、もう決まっちゃってて、どこにも行けねぇじゃねーか。そんなことを訊いてどうすんだ」
「オレは決まっちゃったから、関係ないけど、ちょっと気になって……。いいじゃないか、お前のご自慢のテクニックか何かあるんじゃないか。もったいぶらずに教えろや」
イヤなやつだからこそ、おべっかで「ご自慢の」とまで言った。「ご自慢」というのが効いたのか、偉そうな口ぶりで、自慢たらたらとでもいうのだろう、
「ペーパーテストは適当にやるしかない。そうだろうお前、変に思われないようにうまく間違えて、不採用なんてのはそうそうできることじゃねぇ。ペーパーテストでどうのこうのってのは、考えるだけむだだ。入試でもあるまいし、ペーパーテストの点数で採用、不採用なんてのは、それこそ西郷隆盛はロシア人だってくらいおかしなことでも書かなきゃダメだろう」
「そんなことはわかってる。お前の上手な落ち方というのか、その要領のいいところが気になるだけだ」
早く要点に入れっていうのを、崇め奉ってもらってとでも勘違いしたのか、これ以上ないという口ぶりで、
「要は面接だ。何を訊かれても、まじめに答えないと学校に変な報告されかないからな。さりげなくだ、わかるか。話のなかで何回か、さりげなく何回かだ。『あくせく働くのは性に合わない。競争社会の東京には疲れたから、地方でゆっくり穏やかな生き方もいいんじゃないか』と思ってると、それが応募の動機だって、それ以外には何もないと思わせればいいだけだ。二十歳にもならねぇガキが、地方で穏やかなんて、勤労意欲に欠けるってんで間違いなく不採用にしてくれる。わかったか」

そこまで偉そうにいって、一呼吸おいて、
「お前は不器用だから、このさりげなくっての、できっこない。あきらめろ」
あきれたヤツだと思いながらも、世間ずれしたずるっこさに、いつものように感心させられた。「不器用」は言われなくてもわかってる。ただ「あきらめろ」ってのがしゃくにさわる。
「あきらめるもあきらめないも、オレはゴールデンウィーク明けに決まっちゃって、真似しようたって、する機会がないんだよな。その調子で、オレの分までがんばってくれ」
うるせぇって顔からいつもの人を馬鹿にした顔になって、部屋からでていった。イヤな気もちにはなったが、なんか一つ利口になったような気がした。不器用を馬鹿にされるのはいつものことで、卒業するまで続いた。

入学したのは、高度成長のまっただなかの六十七年。地方はわからないが、東京で経済的に多少でも余裕があれば高専なんかにゃいきゃしない。誰も遊ぶ金なんかろくにない。バイク転がしたりマージャンやったりがせいぜいだった。ハングリー精神のかけらぐらいもっているのが一人や二人いてもよさそうなのに、労働意欲のあるのがいたとは思えない。中には初出社して一週間で退職したのまでいた。辞められた会社もびっくりしたろうが、それでも経歴に傷が残らないようにと就職がなかったことにしてくれた。
売り手市場でのんきに構えたのが実社会で多少はもまれて、いつの間にやら社会人?らしくなって、いっぱしの口の利き方になっていった。そして三四年も経ったらもう十人近くが転職していた。

ちやほやされたところで、たかが高専、中小企業ならいざしらず、そこそこの大手になれば、十年経ってもポジションというポジションにたどり着ける可能性は皆無に近い。夢をもって入社したわけでもないだろうが、二三年も経てば多少は期待されているだろうと誤解させられていたのと現実とのギャップの大きさが埋めようのないことに気がつく。それでもそんなことを気にすることもなく定年までしっかり勤め上げるのもいるが、ほとんどが三十前に転職していく。

卒業して入った会社で組合い運動でうるさいからと、七十五年にニューヨーク支社に島流しになった。駐在に出る直前にクラス会の声がかかった。よせばいいのにのこのこ出て行った。新宿の居酒屋に二十人近くが集まった。会いたいと思うのが二三人いたが、あいつらとは、会いたくないのが五六人いた。男ばかりの荒れた学校で学校の備品であれクラスメートの教科書や製図道具であれなんでも盗んでどこかに売ってきてというのが二人いた。自分の名前が書かれている教科書を八王子の古本屋で買い戻したこともあるし、製図の授業のさなかにコンパスがなくなったこともあった。そんなヤツら以外は、会えば会ったで、それなりに世間話にはなる。その程度の薄い関係だった。ただ学校時代とは違って、多少は大人の会話にはなってはいた。

巷の常識でいう出世など関係ないと割り切ってしまって、良くも悪くも覇気のないのは、ある意味のんびりしていていいが、多少なりとも生きようとしているヤツになると、話の節々に相手との立場や状況の違いを詮索してオレのほうがいいのか、それともといういやらしさが見え隠れしだす。そんな絵に描いたような「どんぐりの背比べ」がイヤで、誰からもできるだけの距離をあけていた。

同級生の一人に中退して古本屋をやっているのがいた。なにがあるわけではなのに、もっとも親しい友人だった。たまに店にいっては世間話をしいたが、もう二年前になるか、突然家の電話も携帯電話もつながらなくなった。奥さんに先立たれ、子供との関係もぎぐしゃくしていたのは知っていたが、何ができるわけでもない。もしかしたら、親しかったヤツらなら誰か消息を知っているのがいるかもと、同級生をたどって訊いていったが、誰も知らなかった。もう二十年以上、なかには三十年以上音信がないといっていた。

仕事でバタバタしていたころ、何度かクラス会に出ては、社会でもまれて枯れてしまった同級生をみて、たわいのない話に相槌をうって、旨くもない酒を飲んで帰ってきた。クラス会など二度と行くものかと思っていたが、もしかしたら古本屋の消息を知っているのもいるかもしれないとクラス会にでていった。

三十を過ぎた頃に会ったきりで、三十五年ぶりに見る顔。誰も彼もが年をとって、一目では誰だかわからないのもいた。猫背のせいもあってか、気持ち以上に身体がしぼんだようになっているのもいる。若作りしていたのもいたが、六十七歳という年以上に好爺の風になっているものいた。あいも変わらず減らず口をたたいているようにはみえたが、若さにまかせた馬鹿さ加減はなくなっていた。

若さにまかせた元気さで闊歩していた悪いのにかぎって、三十過ぎに会ったときは、社会にでてもまれたのだろうが、なんでそこまでと思うほど卑屈に、そして還暦すぎて会ってみれば、卑屈が年をとって、枯れたずるさだけになっていた。学校ではイヤな気もちにされては押し返していたが、押し返すまでの相手もでもなくなっていた。
そこには小説やドラマでみる懐かしさなど何もなかった。あったのは悪が歳をとって枯れた悪になったというヤツらと、若いときからの人畜無害が干からびたものだけだった。
誰も責任をとって年はとれないが、それでも年をとったなり何かあってもいいじゃなか、なければ寂しすぎるじゃないか、と一人で思っている。
2017/7/8