規律正しく、何のために?(改版1)

ニュースで北朝鮮の軍隊行進(パレード?)を見てしまうことがある。たいした時間でもないし、チャンネルを変えるのも面倒で見てしまうが、うす気味悪くてしょうがない。なんど見ても慣れない。それは中国のでもロシアでも自衛隊も同じで、気味が悪い。戦時中のものは、ナチスであろうが日本軍であろうが、映像が不鮮明なおかげで、うす気味悪さもぼやけている。ところが、最近のものは画質がよくなっている分、うす気味悪さが真に迫っている。

機甲師団や航空師団は、遠目にはプロモデルと似たようなモノにしか見えないからいいが、兵士となると、もうそれは人間じゃないとしか思えない。一二一二と単純な手足の動きが、ブリキで作った、できの悪いおもちゃを連想させる。ちゃちなカムとリンクを組み合わせて、ちょちょいとつくったおもちゃのような繰り返し運動は、到底生命のあるものの、まして抽象的なことまで考える能力のある人の動きにはみえない。一言でいえば規律正しくってことなんだろうが、そんなところから何か価値あるものが生まれてくるとは思えない。

規律正しくといわれると、うっとうしいと思いながらも、否定しきれない。しきれはしないが、そんなものを上からでも下からでも、どこからかでも押し付けられるのは勘弁してくれという気持ちがある。なけりゃ社会が成り立たないというのもわかるが、ありすぎれば次の社会への人々の思考を規制し抑圧する。軍隊行進は抑圧の典型にみえる。

ナチスの戦犯、アイヒマンが裁判で主張したように、「規則に従っていれば、余計なことを考えないですむ穏やかな生活をおくれる。規律正しく上司からの命令に従うのはドイツの文化であり、俺がしたことが犯罪だというのなら、ドイツの文化が犯罪なのであって、俺はその犠牲者に過ぎない」
規則に従うというのは、自分で考え、理解して解釈する。その結果としての言動があり、行動の結果に対する責任を持つという、人としてあり方を否定することに他ならない。

四十になろうかというときに田無の実家から逃げるようにして南行徳に引っ越した。引っ越して二年ほどして子供が生まれた。双子だったこともあって手がかかる。できるだけ親の負担を減らそうと、あの辺りでは名の知れた私立の幼稚園にいれた。そこでは小学校に上がる前から初等教育と集団行動をしつけられていた。高校になると、なんだかんだで特定の社会層のなかでの生活になってしまうから、小学校と中学校は公立と決めていた。

南行徳の小学校には日本人ではない親をもった子が何人もいた。中南米からきた日系何世の子もいれば、中年を超えた年の父親と若いアジア系の母親の子もいて、言葉や習慣の違いが授業に影響する。仕事で忙殺されるなか、父兄(来るのはほとんど母親なのに、なんで父兄といいうんだろう?)参観には欠かさず行くようにしていた。それというのも、双子だったから、女房だけでは一方にしか出れない。二人で手分けして長女と次女のクラスに出ていた。

何度もいって驚くこともなくなったが、最初はこういうことなのかとびっくりした。授業中に、外国人の親がビデオカメラを手に、机の間をするすると前に出て行って前から子供を映していた。それが一人や二人ではなく、ときには何人かで場所を奪い合うようなことすらある。
国許の祖父母に孫の姿をということなのだろうが、もう授業どころではなくなってしまう。それを注意しようにも先生も言葉が通じない。なるようにしかならないとあきらめ顔だった。

運動会にいたっては、あきれることに、あちこちでビーチで使うパラソルとテーブルとイスがセットになったものをドンと構えて、クーラーボックスから冷えたビール。それはもう夫婦でビールを飲みながらのピクニック気分のようだった。時間を見ては子供が寄ってお菓子を頬張りながら戻っていく。お母さんの何人もがへそピアスに、タットウというのか小さな刺青まで入っている。
そんな小学校、整列といっても幼稚園のようにはきれい並ばない。日本人の子も含めて、集団行動をともにする最低限の躾ができていない。普通の、というと何をもってして普通のいうのかはっきりしないが、日本人の普通の親から、あるいは祖父母から見たら、うちの子は元気でいいというレベルを超えている。
規則で縛られてきた普通の親や祖父母の目には、規律を徹底しようのない混沌としたクラスで、だらしのない小学校に見えただろう。

公教育は本質的に、子供のころから、なぜという疑問、あるは何のためにというあってしかるべき考えを否定して、規律正しく、集団のなかの一つの駒として活動をする、現在の社会のなかで管理しやすい人材の養成を目的としている。
規律正しく整然とした集団行動をみて、普通の人はそれを善とするだろう。ただその規律正しくが、実は人が生来人としてもっているなぜという疑問を発する自由な考えの芽を摘んでしまうことになりかねない。普通の人たちが思っている規律正しくや整然としていることにどれほどの意味があるのか。多くの人たちが何を疑うこともなく善と思っているものが、善どころか諸悪の根源の可能性すらある。

人さまざま、北朝鮮や自衛隊の行進をみて、かっこいいと感動する人もいる。普通の考えでは躾もできていない小学校の日常、整列さえままならない運動会を見て、だらしないと思う人もいる。それが、どっちがいいの悪いのという話ではないということにはならない。

人としてありようを極端に規制して単純な往復運動を要求する規律正しくは、人としてのありようの本質というのか根源を否定している。規律正しくはできるかぎり緩やかで、人の自由を拘束するものであってはならない。集団行動は強制から生まれるものではない。個々の人たちの自由意志から特定の目的のために必然として生まれた集団行動ならいざしらず、強制された集団行動は悪か悪に近い。
こんな風に思っている人にはあったことがない。似たような人たちがいる社会にはいたことがないだけだろうと思うようにしている。
2019/1/27