文化遺産、好きになれない(改版1)

もう三十年以上前になるが、会社のクリスマスパーティーで椿山荘にいったことがある。そのときは、夜だったこともあって見もしなかったが、先月歩いていって、あまりに立派すぎる庭にびっくりした。話には聞いていたが、きれいがどうのというより、どうやっての方が気になってしょうがない。一年ほど前に、池袋と目白の間に引っ越して、買い物やらなにやらで街を歩くことはあっても、ちょっと足を伸ばせばいける神社仏閣も含めて旧跡といわれるところはできるだけ避けてきた。目の前の鬼子母神にも極力入らないようにしている。

時間は自由になるといっても暇というわけじゃない。やることがないなどという不幸とは縁遠い。通りすがりに目にするのならいざ知らず、きれいだというだけで、薔薇だ牡丹だ、桜だもみじだと、わざわざなんとかという名のついた庭園にという気にはならない。それが自然のものならまだしも、権力や富を握った人が作らせたものとなると、どうしてもそのために呻吟した人たちのことを思ってしまう。ひねくれ者なんだろう。なにがきれいだ、よしてくれってという気持ちのほうが強い。

十年以上前になるが、蛤御門(京都の御所)の前に本社のある会社に三年半ほどお世話になった。駐在先のボストンから毎月帰国して、一週間から十日ほど二条城のまん前にあるホテルに泊まっていた。目の前は二条城だし、ちょっと足を伸ばせば修学旅行の定番になっている神社や寺もある。彼女でもいればデートにということもあったろうが、出かけたのはもっぱら木屋町から先斗町と、その先の祇園の飲み屋だった。

城であれ神社仏閣であれ、庭園や公園でも、大きくて立派であればあるほど、それをつくるために人々に押し付けられた困窮を想像してしまう。今は文化的公共的財産、そしてそのいくつかは公的機関によって管理されていて、かたちながらにしても市井の人々の共有財産なっている。
それでも行く気がしない。断りようのない都合で行くこともあるが、行くたびに、口にはださないにしても来なきゃよかったと思う。目に見えるものとして残っている歴史、その歴史を残すためになされたであろうことを思うと、楽しむどころではなくなる。周囲の人たちが思慮(特定のことに対してという注意書きが必要にせよ)の欠片もなく楽しんでいるのを見ると、同じように楽しめない自分がおかしいのではないかと思いだす。

きれいなものはきれいなんだし、立派なものはりっぱなんだし、ああだのこうだの考えずに目の前のものに、人並みに素直に感動すれじゃいいじゃないかと思わないわけじゃない。わけじゃないからこそ、自分のもっとも大事な、それを失ったら自分じゃなくなってしまうところをと思う自分がなさけない。そんな歴史が生んだものだけでなく、いまでもかたちは違えど似たようなことがくりかえされている。きれいな公園や文化施設、意匠にこった建物はいいが、どれにしたところで先立つものが先立たなければできやしない。

時の施政者の、しばし個人的な名誉欲のために公共資金――庶民の税金が使われている。創業家や買収した企業のイメージといえば聞こえがいいが、見栄のための装飾に費やされる資金。民間の資金といったところで、もとをたどれば庶民の消費が生み出したものでしかない。見栄にまわす事業収益より、まずは従業員と外注先、そして消費者への利益還元に充当したらと思う経営者、歴史的にもいたことあるんだろうか。
アメリカで事業で財をなした人たちが、慈善事業にというのを聞くたびに、そんな財をなさずに、従業員や外注にもっと払って、慈善事業に使うような金を残さなければいいじゃないかと思う。人様の金を散々吸い上げた挙句の慈善事業なんか誰がどうみたって、誉められたもんじゃない。

普通に考えれば、日本の文化遺産、誰もが賞賛するもので、何も恥ずかしがることでもないと思うのだが、それを生み出した搾取を想像すると、もろ手をあげて、ウンという気にはなれない。自分自身もそうだし、家系をたどったところで、文化遺産の染みひとつのために辛苦したものしかいないだろう。もしさせる側にいたのがいたら、いまさらどうしようもないが、嫌だ。
雑司が谷の日もろくに当たらない、舗装が傷んでつぎはぎだらけの裏路地を歩いていると、町屋の貧乏長屋の庶子もどき、何を考えるでもなく自分のささやかな世界を感じる。そこには薔薇でもなければ牡丹でもない、路地裏のこんなところにもという朝顔の生活がある。
2019/1/13