もっとたわいなく(改版1)

テレビや新聞のニュースをみれば、何が何でもそりゃないと思っていることを反芻するようなことになる。そんなことが続いきたからだろうが、もうろくに腹も立たなくなってきた。ただ情けないやら呆れるやらで、この先どうなってしまうのかと不安になる。
「ちきゅう座」でもみようものなら、忘れかけていたことまで思い出させてくれる。思い出したことろで、何ができるわけでもなし、思い出しただけ気が重くなる。みなきゃいいじゃないかという気持ちもないわけじゃあない。知ったところで何をどうすることもできないのなら、いっそのこと知らない幸せってのも、もしかしたらありじゃないかと、ろくでもないことまで考えてしまう。あれこれを気にしたところで、もう年も年だし、あと何年でもないじゃなかと、あきらめの気持ちすら湧いてくる。

ところが、あらためて日常生活をちょっと気にしてみてみれば、ほとんどがたわいのないことで埋めつくさていることに気づく。たわいのないことといっていいと思うのだが、それは「くだらない」でもなければ「バカバカしい」でも「瑣末」や「些事」でもない。これとして気にすることでもないというより、気にするしないと考えることもない、どうでもいい「たわいのない」ことで日常がすぎていく。

たわいのないテレビ、たわいのない話、たわいのない本、たわいのない知り合い……。たわいでないものであふれている。あってもなくてもかまわない。今は気にしていることでも、来年にはたわいのないことになっているかもしれない。たわいのないもののない日常生活なんてものはないどころか、ちょっと引いてみてみれば日常生活とは、たわいのないものからできているような気さえしてくる。見えてはいても見ていない、気がついたところで、それで何をと考えることもない「たわいのない」、まるで空気のようなものにすっぽりくるまれている。

それはちょうど薬のようなもので、どんな薬でも薬効成分は取るに足りない量しか入っていない。薬効成分以外のすべてがたわいのないものではないだろうが、薬効成分でないことだけは確かで、たわいがあるものとも思えない。年も年だし白内障の気があるからと、眼科にいって処方箋を書いてもらっている点眼薬がある。気があるというだけで、転ばぬ先の杖のように使っているが、改めてみたら、「カリーユニ点眼液0.005%」「有効成分:1ml中ピレノキシン0.05mg」と書いてある。毎日几帳面に注してはいるが、注している点眼液の99.995%は薬効成分以外のどうでも、いってみればたわいのない成分ということになる。

人間の、というよりすべての生物にもいえることだろうが、外界からの刺激すべてにいちいち応答していたら、刺激から得られる情報を処理しきれない。なんらかのやりかたで、生理的に刺激を気にしないように無意識に取捨選択しているのだろう。刺激のうちで、これはと思うことに集中しなければ、必要とする処理ができないし、処理に必要な思考とそれにともなう行動にも結びつかない。

社会常識や個人の志向や嗜好から、たわいないとすることが違う。ある人や組織にとっては、それこそが生きていくうえで欠くことできないことであっても、他の人や組織にとってはたわいのないことでしかないことも多い。違いがあるにせよ、誰にとっても欠かせない、気にしなければならないかそれ以上の重要なことと、たわいのないことのどちらが多いか、考えるまでのこともない。たわいないと(多くは無意識のうちに)意識の外においていることのほうが、たわいのある、気にしなければならないことより圧倒的に多い。そこにはちょっと前までは、たわいないと無視してきたことが、ある日突然たわいのあることに変わることもあるが、総体でみれば圧倒的にたわいのないことのほうが多い。

こう考えてくると、人間社会も個々の人たちの人生も、実はたわいのないことで埋もれているといってもいいすぎじゃない。誰もスーパーマンであるまいし、聖徳太子のように、一度にいくつもの気にしなければならないことに対処できるわけじゃない。限られた時間と能力のもと、あれもこれも気にしなければならないことが、それこそ雪崩か津波のように押し寄せてくる毎日を送っていると、普通なら意識することもなかったたわいのないものやことを、あえて求めるという逆転現象が起きる。

娯楽、それも高尚なものでなく、粗野で卑近などうでもいいものを求めて、それが社会現象にまでなって、ビジネスにまでなっている。むかしある漫画家が、子供にとって漫画は「おやつ」のようなものだと言ったと聞いた記憶がある。漫画家にとっては日々の糧をえる、人生の目的というべき漫画が、子供にとっては決して必要不可欠なものではないし、親にしてみれば、漫画に時間をかけるより勉強にという気持ちもあるだろう。

できることはしなければと強迫観念に近いものがあるが、ずーっと後ろに下がってみれば、思ったところでどうしようもないのなら、一層のこと、どうしようもないことはたわいのないことと割り切ってしまうのも穏やかな生活を送るための、ちょっとずるいが、処世術というものじゃないかとすら思えてくる。
できるだけたわいのないものやことを増やすというのもへんだが、そのほうが精神的には健康を保ちやすいかもしれない。
人生の先もみえてきたようだし、多少は真面目にたわいのないことを考えている。何をしたところで、何がどうのこうのでもない、たわいのない人生ということなのだろう。それでも、そこになにか、たわいのあることをと、どうしても求めてしまう。そんなこと忘れてしまえば、もっと楽になるはずなのにと思うと、もったたわいのないものはと思い出す。
2018/10/28