スクラップブックの話(改版1)

こりもせずに「グローバリゼーション」と「新自由主義」を演題にかかげたセミナーにでかけた。平日の夕方からのセミナーにもかかわらず盛況だった。
京大の先生が、セミナーのためだけに日帰りできてくださったという主催者の紹介を聞いて、思わず今日はと期待がふくらんだ。もともとはマクロ経済学だったが、限定された領域から広く社会全般に視点を広げて……と自己紹介から始まった。グローバリゼーションの本論に入ったのかと思ったら、「グローバリゼーションは今に始まったことでもなく、大航海時代から……」という歴史的な話になって、新自由主義がはたして自由主義なのか、民主主義なのかという、経済問題をはなれて社会や政治の世界の話に転がって、ポピュリズムの話しになった。

産業構造とそれにともなう社会の変化に取り残された人たちが、変わり続ける社会を牽引しているテクノクラートや政治家に対して、「否」を突きつける。その「否」を梃子にして金儲けを目的とした政治屋がでてくる。それはグローバリゼーションだから、新自由主義だからということではない。社会構造が大きく変わるときには必ずといっていいほどおきる社会現象にすぎない。明治初期の士族の反乱は典型的な「否」の例だろう。
その「否」を言い出した「マイノリティの権利を守る」のが民主主義ではないかという主張。いわんとしていることはわかるが、まさかだからといって、炭鉱町の人々の生活を守るために、環境への負荷の大きい石炭を主要なエネルギー源にという話にはならない。

研究室に閉じこもった学者肌の先生というより、テレビにでてくるコメンテータのような口ぶりで、話にはメリハリがあって聞きやすい。ただ、いくら聞いていっても、スクラップブックのあちこちから拾ってきた話題から話題へで、研究者としての軸足も見えなければ、経済学上の踏み込みもない。新聞やテレビで報道されていることを整理しているだけの話だから、何を言っているのかわからないということはない。安倍や官僚どもよりロジックは通っているし、新興宗教の教祖の話よりは聞きやすい。

聴衆が一般人ということで、わかりやすさを優先して研究されていることの骨格を持ちだすことを躊躇されているのかもしれないが、スクラップブックからは改めて目を開かされるような話はでてこない。お聞きしている限りでは、目の前の社会経済活動を是とする社会にいたった経緯と、その経緯を可能にした社会や経済や文化はどこからどのようにして生まれたのかという本質を突き詰めようとしているようにはみえない。
どう聞いても、日本にいて普通に手に入る情報に基づいての話し。世界の主要な新聞に目を通してのこととも思えない。その程度のことだったら、テレビにでてくるタレントやコメンテータの漫談で十分。わざわざ、ご高説をとありがたがって聞きにくる必要などない。

二時間の予定のお話だったが、とても聞いていられない。がっかりして一時間ほどで出てきた。そこは秋葉原、大型バスが何台も止まっていた。日本の電気製品の買出しツアーに乗った中国からの人たちが歩道にあふれていた。思考の慣性というほどのことでもないが、変わり続ける状況に人々の理解がついていけない。日本の電気製品をと思うのはいいが、家電製品や情報機器の多くがどの国で製造されたものなのかわからなくなって久しい。
iPhoneがいい例で、何をいくらで作らせて、いくらで売るかを決めているのはアメリカの会社。作っているのは台湾の会社の中国の工場。工場では日本製の機械や装置が活躍している。使われている素子のほとんどは日本と韓国からの輸入品。製造メーカの利益率(Net profit margin)は十年前の二パーセントから改善したといっても、たかだか十五パーセント程度。素子を提供している日本と韓国の会社の利益も大きいが、ほとんどはアメリカの会社が持っていく。

これはiPhoneに限ったことではない。白物家電やコンピュータなどの情報機器からはては日用雑貨まで、どれも似たようなものだろう。素子やコンポーネントの多くが日本や韓国、ときには台湾や中国で製造されて、それがこの四カ国や東アジアのどこかの国に送られて最終製品に仕上げられる。ものによってはほぼ完成品というモジュールでもってきて日本製にしている。日本製だからという信頼性の神話に引きずられて秋葉原ということなのだろうが、国に帰ってフタを開けてみたら、中身はほとんど中国製だったなんてこともある。政治が国境を作ってしまうだけで経済に国境はない。

科学技術の進歩とその応用が、製造業も含めて産業界を大きく変えてきた。利益の最大化を目指す企業の経済活動が国境を越えたのは、先生がおっしゃる通りいまに始まったことではない。ただ大航海時代とも第二次世界大戦後の復興期とも違う。社会経済活動の大きく変えたのは半導体とその応用技術の発展で、ことにインターネットの普及が歴史的なグローバリゼーションと今目の前で起きているグローゼーションを規模も性格も違うものにしている。その現象の一つが、ささやかなものにすぎないにしても、セミナー会場を一歩出た秋葉原の街にある。

全体像を鳥瞰せずに、目の前で起きている現象に右往左往していたら、見えてるはずのものすら見失う。その危険を回避するためにも、経済学から一歩下がって社会全体をみなければというのもわかる。わかりはするが、新聞用語をならべたご高説より秋葉原の喧騒のほうが何かを教えてくれるような気さえする。社会を突き動かす基礎にある科学技術の進歩とその応用、そこから引き起こされた現象としてのグローバリゼーション、その現象のひとつの断面が秋葉原に見える。

マクロ経済学でも国際マクロ経済学でもいい。社会学でも環境問題でもいい、見える現象を引き起こしている科学技術の活用から症状を追いかけなければ、せっかく見えているものですら、解釈までには至らない。経済学の限界を感じてなのだろうが、なぜ経済の下部構造の科学技術の進歩とその応用の分析に向かわずに、上部構造の政治や思想の世界に行くのか。下部構造の理解なしではスクラップブック程度の話で終わる。改めて聞くまでのことでもない。秋葉原の電気街でもほっつき歩いていたほうがいい。
2018/10/7