だらしないまでなら

生来の小心者、人との待ち合わせに遅れるのが怖い。待たせるより待たされたほうがいい。遅れて引きずる負い目など冗談じゃないという下町気質もあってのことで、相手の立場や年が上とか下とかには関係ない。ただ余裕をもって早め目ぐらいならまだしも、一時間近くも早すぎると、どこかで時間をつぶさなければならないなんてことになる。そこまで時間があれば、適当な喫茶店に入ってもいいが、二十分三十分だと、喫茶店を探しはじめてには時間が足りない。

改札をでても、なんとも使いようのない時間がある。何か読むものでももっていればいいが、それもないと、何をするでもなく通り過ぎていく人たちをボーっとみていることになる。三十分も前に来てしまって、もう約束の時間なのに、改札をでてきそうな気配がない。またかと思いながら。五分、十分……、三十分を過ぎてもこない。
事務所をでようとしたら、はずせない電話でもかかってきたのだろう。今頃電車のなかであせっているのかもしれない。車内だから電話をかけるものためらっているんだろう。確認の電話をかけるのも、相手を追い込むようなことにならないかと躊躇する自分がイヤになる。必ず十分二十分は待たされるのに、三十分も前に来てしまうのはどういうことなんだ、お前は馬鹿かと自問して、いっそのこと二十分三十分遅れてくればと思うのだが、それができない。

やっと改札に顔が見えたときは、優に四十分以上過ぎている。いつものことで驚きゃしないが、そこまで遅れてきても、申し訳ないという気持ちなんかどこにもありゃしない。口先だけの「ごめん、ごめん。待った?」。五分かそこらの遅れなら、「待った?」もありだろうが、三十分も四十分も遅れて、お前じゃあるまいし、待ったというより待ちくたびれた、馬鹿野郎の一言も言いたくなる。何度も待たされて、何度もふざけるなって思っても何も言う気になれない。言ったところで何が変わるわけでもないし、イヤな気持ちだけが残る。お前のだらしなさは文部科学省のお墨付きのDNAだろうから、親類縁者同士でも「ごめん、ごめん。待った?」が挨拶代わりになってんじゃないか、と嫌味のひとつもと思いはする。

暇で暇でしょうがないという人もいるだろうが、普通誰しも時間を有効に使いたいと思っている。何をもってして有効なのか、なにを目的としてなのかは、人さまざま、時と場合によっても違うだろうだろうが、一つ間違いなく言えることがある。待ち合わせの時間に、おいそれはないだろうというほど遅れる人は、もう事務所(家)をでなければ遅刻になってしまうのをわかっていて、自分の時間を自分のために使っている。待たされる人は、その分自分の時間を意味もなく浪費することを余儀なくされる。
それはもう犯罪といっていい。誰しも限られた時間のなかで、仕事も私生活も個人的なことからなにまでやりくりしている。なんでも金に勘定するのは嫌いだが、分かり易いというだけで方便として使う。年間総所得から割り出して一時間あたりの所得が、仮に一万円としたら、四十分遅れたら約六千七百円の損失になる。

そういうヤツにかぎって、待ち合わせだけでなく、何をやらせても要を得ない。時間通りにことが済んだことなどあったためしがない。しょうがないから、時間にたっぷり糊代をつけておいても、抜けているくせに糊代にはしっかり気づいてか、あっけなく糊代を越えていく。ところが、必ず遅れるくせに、同僚というレベルの上下関係をはるかに超えた相手になったとたん、同じ人間とは思えないほど時間に神経を使うのがいる。
だらしないというのは正当な評価だが、ひとつ大事な点を見落としている。それは、だらしないというより人として「ずるい」といったほうが合っている。だらしがないだけなら、相手の迷惑なんか知ったことか、かけられるならかけて自分のやりたいこと、やらなければならないことをやってというのが、そんなことをしたら、自分に害が及ぶかもということになると、不慮のことからでもと細心の注意を払って、しばし卑屈なほどまでに相手の顔色から一言一言まで神経をとがらせる。

同僚として、あるいは仕事を通して出会ったというだけで、それ以上の付き合いは御免こうむりたい「だらしない上にずるい」人でしかない。だらしないまでなら、しょうがないと思うしかないが、ずるいのとは仕事であろうが、なんであろうが関わりあいたくない。ところが、それが上司となると反面教師として付き合わざるを得ない。上司は部下を選べないことはないが、部下は上司を選べない。もっとも、上司を選ばせろと言ったところで、ずるくない上司などいたためしがない。
2020/3/1