晩成に希望を託して(改版1)

世間話のなかででてきた。なんということもない一言なのに、どうにも気になってしょうがないことがある。ちょっとした一言から元気になることばかりならいいのだが、しばしそう言っちゃあ、終わりじゃないかというのに引っかかって、ついあれこれ考えてしまう。自分なりにといえば聞こえがいいが、要は自分の都合のいいようにということでしかないのだが、自分で自分を納得させる、できればしたくもない、したところで何があるわけでもない作業が無意識のうちに始まってしまう。

「物事極まれば才能だ」と聞いたとき、いい年して、未だになんとかならないものかと、あれやこれやとやっている自分のことを言われた気がした。あまりに的を射ていて、なんとも言い返しようがない。おっしゃる通りで、わかりはするがわかりたくない。言葉の通りであれば、ほんの一握りの、恵まれた素質とそれを開花する環境を得た人たちだけが、何か価値あるものを残せるだけで、そうではない普通の、ほとんどすべての人は、やってもだめだから、悪あがきもほどほどにして、止めたほうが、ご自身にとっても周囲の人たちにとってもいいからということなりかねない。

才能とはとあらためて考えれば、それは素質と環境も含めた努力によって培われるものだろう。素質がほとんどの才能の世界もあるだろうが、それはほんのきっかけ程度の重みしかもたない世界もあるじゃないか。いや、そっちの世界のほうが大勢じゃないのかって思わざるを得ない立場にいるだけに、そう思おうとしている。
もって生まれた素質もなければ、環境という環境にいたこともない庶子もどき、何があるわけでもないが捨てきれない意地の欠片ぐらい残っている。いつの日にか見返してやれないかと口にはださなくとも、身の丈の上を仰ぎみてしまう。

歴史をちょっとみれば、モーツアルトやショパンやガーシュインのように若くして花火のように輝いて夭逝した天才も多いが、なかには年いってから開花した人もいるじゃないか。絵画や音楽といった芸術の世界では、何にもまして持って生まれた素質がすべてに近いかもしれないが、そこまで恵まれた素質なんかなくたって、愚直にこつこつと芸と技とを、そして生きる術に磨きをかけてという社会もあるじゃないか。

ましてや平均寿命が三十かそこらだった、あるいは人生五十年といわれた時代でもあるまいし、社会も複雑になって、もって生まれた素質からでは開花しきれない可能性すらある。人生八十年といわれる今日日、もって生まれたもの以上に後天的というのか努力の賜物ではじめてなしえることも多いじゃないか。素質も何もないものの思いでしかないと笑われるかもしれないが、そうあってほしい。
そうでも思わなきゃやってられない自分に、取るに足りないにしても自信もあれば、自負もある。それさえなくなったら、それこそ終わりじゃないか。

いくらやっても、たいしたことにはなりはしないだろうという諦観に近い気持ちもある。それでも、やろうともしないで最初からあきらめていたら、何もおきやしない。うまくいかなかったところで、もともと何もないのだから、失うものもない。多小なりとも、何かあれば何もないよりましじゃないか。なんとかしてやろうという気持ちさえ失わなければ、何かが生まれる可能性はなくならない。寿命も延びたことだし、あきらめずに続けていれば、そのうち何か見えてくるだろうって思っていたい。

「可能性」、きれいな言葉で言い換えれば「夢」、俗な言い方をすれば「欲」や「野心」になるだろう。大きすぎれば重さでつぶされかねないが、身の丈にあったものすら捨てたら、それこそなんの人生だってことになりゃしないか。執念にまでなると疲れちゃうし、そこまでいくと傍目には見苦しいだろう。傍目なんか気にしてもという気もないわけじゃないが、なにがあっても自分を捨てるわけにもいかないし、人様の迷惑にならないように気をつけながらがんがんばろうって、それが人生ってもんだろう。
とうに還暦もすぎたオヤジの勝手な思いといわれれば、それまでだが、幸いなことにまだ時間がちょっと残っている。
2019/5/12