還暦過ぎて青春をと思ってはみたけれど(改版1)

昭和四十七(一九七二)年に就職した。薄給のノンキャリアだったが、それでも親の脛かじりから社会人になった。就職すれば高専の詰め込み教育から開放されて給料もはいるしで、多少なりとも人並みの青春をおくれるかもしれないと思っていた。

ところが、幸か不幸か、配属されたのが技術研究所の試作機の設計部隊だった。凝りに凝った旋盤の一モジュールの設計を任されたが、どこをどうしていいのか見当もつかなかった。何をするにも知識不足でどうにもならない。朝出社して退社するまで、ドラフターに向かってはいても線一本描けない日もあった。
上司や先輩に相談するにも限度がある。みんな自分の仕事に忙しくて、だらしない新卒の、それも高専出なんか相手にしている余裕はない。訊くに訊けない。資料室に入り込んで簡便式を探し当てて、その場その場を凌いでなんとかなるものばかりではない。基礎知識の不足をなんとかしなければならない。毎日きまって残業二時間。寮に帰って飯食って風呂入って、毎晩技術資料や買ってきた本を読み漁っていた。

職場は勉強の場でもあるが、本来は持てる能力を発揮するところ。そこで必要な知識は個人の時間と努力で用意するもので、与えられるものではない。必要とするすべての知識を持って臨むのは難しいにしても、最低限の用意もなしでは仕事にならない。
ドダフターを前に毎日のように行き詰って、夜と週末は勉強の時間になった。たまに途中下車して大型スーパーに寄ったり外食することはあっても、なににもまして勉強だった。

ところが、寮で出会う先輩も同期入社の連中も、脛かじりから脱して自分の足で楽しみを求めて走り回っていた。一年もしないうちに同期の何人かがローンで車を買った。通勤や寮の仲間と一緒にどこかにというのもあるが、当時彼女をと思えば、車は必須だった。何かで出会っても、車がなければ、それだけで相手にされないことすらあった。

お小遣いからではなく自分で稼いだ金で、気の合った仲間と居酒屋がよいも、週末寮の談話室でのマージャンも当たり前の時代だった。夏は海に、冬はスキーに、ゴルフにテニスに……、一年中誰も彼もが今しかないという青春を謳歌しているようにみえた。オレも人並みにと思っても、気が小さい根っからの心配性、仕事をしていくための知識と社会人としての常識を培うことを優先して、楽しみは後回しだった。
正直、うらやましかった。学校ではそこそこ勉強してきたつもりだったが、何のためという目的のない勉強だった。社会にでてはじめて何を知らなければならないのか、そしてプロとしての仕事のありようを知った。

三十過ぎからは、知らない世界を見たい、もっと知りたいという気持ちから転職をかさねた。気がつけば、日本とアメリカとヨーロッパの会社を傭兵のように渡り歩いていた。何もなしで知りもしないところに飛び込んでいく度胸はない。どうにでもできるという自信がなければ、いつレイオフになるかもしれないところに転職なんかできない。なんども転職を重ねて図々しくなった。いつのころからか、前もっての準備など考えることもなくなった。歳もいって、前もって準備できることで、どうにかなるような立場でも仕事でもなくなっていた。
つたない経験からだが、行く前に聞いていた話の通りだった、あるいはまあまあ聞いていた通りだったなんてことは一度もない。資料や報告書をみて、話を聞いてで戦える戦場なんか巷のコンサルかビジネスグルが書いた本のなかにしかない。戦場はどこにいっても五里夢中。社会的あるいは政治的な死を覚悟して、当事者として行ってみなければわからない。

どこでも出社して一週間もすれば、騙されたことに気がつく。話をしている本人が分かってないから起きたことで、騙そうとして騙したのではないだけになんともいえない。たとえて言うなら、天動説。ありのままの日常生活を通してのことで、太陽を指差して、地球の周りを太陽が回っていると信じている。そんなところに一人地動説引っさげて事業の建て直し、どうしたって革命もどきになりかねない。
どこにいっても最低限必要とされる知識や仕事の仕方は十分身についているというささやかな矜持もある。経験もあれば自信もある。そうはいっても、行く先々で製品も違えば組織も文化も違うから、一からではないにしても勉強に明け暮れる。なにがあっても三月や半年のうちに、雇ってよかったと思われなければ仕事にならない。個人の楽しみなど気にしている余裕などあるわけもない。

還暦過ぎまで、戦場を渡りあるいてきて、はっと気がついた。周りの人たちはなんだかんだ言いながら、普通のサラリーマンとして、思い思いの楽しいときをすごしてきているように見える。ゴルフは上手いらしいが、外資に十年以上いて、英語のえの字もわからないで平気でいられる神経はちょっと想像できない。サーフィンはすごいらしいが、ソフトウェアが深くかかわった製品なのに、Windowsの標準的なアプリケーションさえろくに使えない。客にいってペラペラやってるのを側で聞いていると怖くなる。いざとなったら、技術か工場に放り投げればいいと思っているとしか思えない。勉強しろといいたくなるが、毎晩酒なしの生活なんかありえないだろう、と自信満々のサラリーマン生活を送っている。

傍目にどうみえるか知らないが、この歳になるまでやりたいことをやってきた記憶がない。若いとき車も転がしたかったし、マージャンもしたかった。スキーもテニスも彼女も、みんなでわいわい飲みにいってとも思った。どれもこれもがあこがれに近いものだった。二十三、四のとき労組の夏のキャンプではじめて「神田川」(ずいぶん前にはやってたらしい)を聞いて、オレの青春ってなんなんだろうって思った。間違って彼女なんかでてきた日には、どうしていのかわからない生活をおくっていた。したいことを後回しにして、しなければならないことをしなければという染付いた悪癖でもなければ、傭兵家業など務まらない。

もう歳も歳だしと、さっさと一線から引いて、やりたいことをと思ってはじめてみれば、それはそれでやらなければならないことばかりが目につく。若いときにしたいと思っていながらもできなかった、しなかったことに悔いがある。悔いはあるが若いときに思ったことを、今そのままという気にはなれない。二十や三十のころにしていたことを同じようにし続けている人たちもみるが、歳のせいだろう、うらやましいとも思わなくなってしまった。こういっては失礼になりかねないが、意味のある年のとりかたってものもあるだろという思いのほうが強い。それでも、やりそこなった青春という思いはなくならない。

還暦過ぎて自由になって、やっとこれから青春と思ってはみたが、いまだにやらなければならないことを先にという強迫観念から抜けだせない。
2019/8/18