この馬鹿野郎が、心配してんだぞ(改版1)

お袋は料理が嫌いだった。少なくとも好きじゃなかった。近所の蕎麦屋の出前で済ませてしまうこともあれば、刺身や肉屋であげてもらったトンカツで終わりのことも多かった。そんな出来合いのものでも、寮や社員食堂ででるものとくらべれば、これ以上のご馳走はないというものだった。なんで働くようになってからの飯のほうが貧しいのか、食べるたびになんとも説明しがたい不満がつのった。
昼は工場の社員食堂でエサのような定食。朝晩は独身寮でエサ以下のメシ。なんでこんなものをと思いながらも、食べようが食べまいが、毎月定額差し引かれているから、食べなければ丸損になる。残業で遅くなって、乗り換えの柏で表にでて、ラーメンや定食を食べてしまうこともあったが、できるだけ寮の食えない飯を食べるようにしていた。寄り道は家計簿でいえば交際費か娯楽・教養費になるから、エンゲル係数はものすごく低い豊か(?)な生活だった。そんな生活が風戸さんにつれられて歩くようになって変わった。

古米だからなのか、電気おひつとでもいうもののせいなのか、冷えないようになっているのはいいが、イヤな臭いはするし、米がぐちゃとなって固まっている。そこにドッグフードのような親指の先ほどの大きさのミートボールのようなものに野菜くずのあんかけがかかったおかず。これでも味噌汁なんだろうなというお吸い物?文句もひとつもでないのが不思議な食い物だった。

腹をすかせた野良猫でも見向きもしない夕飯をダラダラ食っていたら、食堂の入り口からしゃがれ声がした。
「おい、藤澤、何やってんだ。早くしろ、行くぞ」
三期上の風戸さんだった。二十五日に給料もらって、月があけるまで持てばいいという、一世代前のサムライのような人だった。
何やってんだってと言われても、出かけるなんて聞いてない。
「えー、ちょっと待って。すぐ着替えてきますから」
といって、口に入れるのが苦痛でしょうがない飯を棚に戻した。
急いで四階の部屋に戻ってさっさと着替えて降りていった。風戸さんにはちょうどいい一服の時間だったのだろう、玄関をでたところで待っててくれた。最寄駅から寮まで、まばらな住宅と雑木林の間を抜けて二十五分、寄り道しようにもなにもない、そこはまるで陸の孤島のようなところだった。ろくに歩いている人もいないから、痴漢もでやしない。
寮から歩いて五分ほどの、めったに車も通らない交差点にたって、やっときたタクシーを捕まえて、「柏」。

試作機の設計に正式配属されてからは、仕事で行き詰って、社会のありようも気になって、毎晩技術資料を読み漁るか、社会や経済学の本を読みふける生活を送っていた。土日も一人で部屋に閉じこもっての生活のなかで、風戸さんに引き回されるのがただひとつの気晴らしだった。

柏駅の東口に入ったところで降りて、いつものようにケーキ屋にいった。ママとマスターに女子二人、もしかしたらヘルプで入っているかもしれない女の子にもとショートケーキを五個買って歩いていった。風戸さんは、年に十二日ある有給を使い切って、二十日以上の欠勤。上司に何を言われようが、馬耳東風。遅刻と早退はないものの、本社工場の問題児だった。七十年代の初頭、まだ学園紛争の余波は残っていたが、ここまでの不良は風戸さんだけだった。

ちょっと見には無駄口の少ない大雑把な人にしかみえないが、付き合ってみればすぐわかる。周りの人たちには、そう思われるのを嫌っていたが、なんでそこまでというほど細かな気を使う人だった。通いの場末のクラブにも、手ぶらではいかなかった。いつも一人カウンターの隅に腰掛けて、ママが客についていればマスターと何か話しているだけで、女の子とは二言三言交わすだけだった。

しばし朝方まで店に残って、ママのアパートに行ってマスターと四人でマージャンになった。こっちがへこむ分をちゃんと取り戻して、終わってみれば、いつもほとんどチャラだった。決して負けないし、勝ちすぎもしない。人の輪をつくって楽しんで、人を上げもしなければ下げることもない。マージャンも風戸さんの生き様のようだった。泰然としてみんなの後ろに引いている。人事が目くじら立てっぱなしの問題児が職場を一歩離れれば、どこにいっても周りには人が集まっていた。

入社して四月三日に初出勤して驚いた。正門には大きな組合の旗がいくつもひらめいていて、ベースアップを要求したビラが配られていた。保守政党の引き立て役もろくにできない野党の下部組織のような労組が、かたちながらにしても、なんでこんなに元気なのか不思議でならなかった。入社早々組合委員長の長話を聞かされたが、何を言っているのかわからなかった。社会経験と認識が足りないからかと心配になったが、後で思い返してみればなんのことはない、格好をつけているだけで、何を言っているのか、たぶん本人もわかっちゃいない。そんな話、誰も聞いちゃいない。
周りから聞こえてくる話からは、御用提灯の扱いもおぼつかないヘタレ労組にしか見えない。そんなところに毎日のように集まっている人たちとはいったどんな人たちなのか、気になっていた。

眠いだけの新入社員研修が終わってからもグズグズして、半年経ってやっと仮配属で設計部にいったものの、これといってやることがない。どこをほっつき歩いていても、新卒がうろちょろしているとしか思われない。それをいいことに、時間があれば工場内を歩き回っていた。工場のどこになにあるのかが大方わかってきたころ、そろそろ労組の馬鹿面でもみにいくかと思いだした。
組合費も闘争積立金も給料から天引きされた、れっきとした組合員だが、何という用事があるわけでもなし、組合事務所のドアが重かった。なんどかドアの前まではいってみたが、知的関心を呼ぶようなものもないだろうし、小集団の仲間意識の塊のような輩しかいないだろうし、と開けるふん切りがつかなかった。なんど目だったか、組合事務所への通りを歩いていたら、後ろから声をかけられた。

「おい、藤澤。何やってんだ、お前。こんなとこで」
風戸さんだった。小さいときに病気でもしたのかと思わせるしゃがれ声でわかる。寮では顔を合わせていたが、大酒飲みだと耳にしたことがあるだけで、ちょっと怖い先輩というイメージが先にたって、挨拶をすることもなかった。
「いえ、労組ってどんなとこなのか、ちょっと気になって……」
「気になってって、お前。何も気にすることなんかねぇーじゃねーか。ぱっとドア開けて、ちわーって入っていけば、いいだけだろうが」
そうは言われてもと思っているのがわかるのだろう、
「変わったやつはいても、おかしなやつはいねぇーから、心配するな。入ってけば、あんた誰って声をかけてくれるから……」
変わったやつどころか、労組お馬鹿しかいっこないじゃないかと思いながら、
「先輩じゃなんですから、そんな気楽にはいきま……」
いい終わらないうちに、
「なにぐだぐだ言ってんだ、お前。組合員なら誰だって、ちわーっていって入ってけばいいだけじゃねぇか」
いいからついて来いという感じで風戸さんについて事務所に入った。「こいつは信頼できるから」という口ぶりのおかげで、かたちながらには暖かく迎えてもらったが、誰の顔にも「こいつ、なんなんだ」と書いてあった。それでも風戸さんのおかげで、その後たいした気後れもなく事務所に出入りできるようになった。入れるようになったというだけで、いつまでたっても違和感は消えなかったし、かたちながらに相手にされていただけだった。

女の子は、客と調子よく話をあわせながら、雰囲気を壊さないように上手にママやマスターと目で会話していた。アイコンタクトとでもいうのだろう。どうでもいい馬鹿話をしていたら、女の子が小声で、
「藤澤さん、カウンターに来てってみたいよ」
なんだよ、うっとしい。今日は金曜じゃないからマージャンって話でもないだろうし、ママやマスターと話すことなんかない。
「えっ、何?誰?」
「たぶん風戸さんだと思うけど」
なんで風戸さんが。風戸さんだったら、寮でも会社でも組合事務所でもいつでも話せるのに、なんでここで?と思いながら、
「なんでよ。話がのってきたところなのに」と一言をおいて、カウンターに行った。
なんだよ、さっきまでカウンターの右隅で風戸さんと話していたのに、二人とも、左隅に移ってこっちを見てる。なにかおかしい。そういえば、タクシーの中でも、ケーキ屋から歩いてくるときも、なにか言いたそうな感じだった。

いきなり言われた。
「お前、誰を使ってもかまいやしないが、芳子は使うな」
芳子は風戸さんの彼女で工務課で事務をしていた。たまに無駄口をきくことはあるが、何を話した記憶もない。何を言われたのか、わからなかった。それに気づいて、
「芳子に話せば、俺に抜けるだけじゃなくて、波男にも金子にも抜ける」
なんの話かわからい。何を怒っているのか思っていたら、
「お前の言い分はわかる。間違っちゃいねぇ。でも、同期の桜がどうのってたって、わかるヤツらじゃない。なんにしたって、その程度のヤツらだ。わざわざ敵をつくるな。なんかあったらオレにいってこい」
「お前があっちだってことは、俺はわかってるが、あいつらは、もしかしたらそうかもしれないとまでしか思っちゃいない。あんなヤツらをうまく使わなきゃならないんだろうけど、無理するな」
なんだよ、こっちの立場わかってんだから、そんなことでいちいち言ってくるなと思いながらも黙って聞いていた。
「経理の岡田さんや総務の田中さんあたりまではいい。でも芳子は使うな。そんなことをすれば、お前が動けなくなる」
「えぇ、岡田さんとも田中さんとも最近なにも話してないですよ。あの二人には警戒されてて、もう近づけないですよ」

「まあいいわ。お前たちにしたって、今度の選挙が始まりで、今度で終わりってわけじゃないだろう」
「お前があっちだって表にでちゃったら、この後どうすんだ。動けなくなるのわかってんのか。俺には関係ないって話にゃならないことぐらいわかってんだろうが」
「こっちとあっちをつなげられるヤツがどこにいる。お前だけだ。お前があっちだと旗色を鮮明にしたら、誰があっちとこっちをつなげるんだ、馬鹿野郎が」
誰も鮮明にしようなんて思っちゃいない。たとえ見えたにしても、くすんだはっきりしない色にしておかなければと注意していた。それでも、話しているうちに色が抜けて見えてしまうのだろう。
「今回はお前の方の圧勝だ。そんなときになんでお前までが動き回る。あっちのなかでのお前の立場もわかる。でもな、今はおとなしく後ろに下がってろ。後はこっちでしまつするから」
しまつするからって、何をどうするのかわからないが、ああだのこうだの言い合ってもしょうがない。金子さんも波男もこっちからどうできるわけでもない。青年婦人部の幹部やその取り巻きとのやり取りは風戸さんを通してしかない。

今回の選挙は負けっこない。放っておいても圧勝は間違いない。片岡にしてみれば、力の見せ所で、圧倒的な勝をと思っている。そこに圧勝ではものたりないというのか欲がでてきた。今回の選挙戦を通して、いままで口をきくこともなかった人たちと話をできるようにならなきゃって言いだした。候補もたてられないところから、圧勝が見えたとたん、目の前の成功のその先、将来の足場づくりに気持ちが走っていった。

「風戸さん、わかってやってくださいよ。片岡にしてみれば、今まで候補もたてられなかったのに、今度は圧勝間違いなしってんで、そりゃ誰だって浮かれちゃいますよ。男は三十までしかいられないから、今年一年限りで終わり。来年は大政奉還じゃないですけど、そっちにまわすってことで話はついてるんだから、大目にみてください」
青年婦人部の部長は我孫子と習志野の一年ごとの持ち回りのはずなのに、我孫子出身者が続いていて、それが常態化しつつあった。 持ち上げる気持ちもあって、大政奉還と言ってしまった。言ってしまって嫌な気持ちになったが、それは風戸さんにしても同じだったろう。
ぶっとした表情で、
「片岡が浮かれるのはしょうがない。今年限りだし……」
一呼吸おいて、声をあらためて言われた。
「問題はお前だ」

まったくクラブまで来て話すことじゃないじゃないかと思ってはみたが、ここが一番誰にも気兼ねなく話せるところだった。会社でも寮でも組合事務所でも話せない。そこいらの居酒屋や喫茶店もどこに関係しているヤツがいるかわからない。それにしても、なんで俺が問題なんだ。何を言いたいのかわからなかった。風戸さんのことだから、先を見て言っているだろうこが。それにしても、なんなんだとストレートに訊いた。

「なんで俺なんですか」
この馬鹿と呆れた顔をして言われた。
「だから、さっきから言ってんだろうが、河野や高野が前に出て動き回るのはかまわない。あいつらは、我孫子の実働部隊として動かなきゃならない立場にいるからな。でも、お前はあいつらとは立場が違うだろうが。お前までが表にでたら、組合も会社に対する体面もあって、放っておくわけにもいかなくなる。河野は政治的な立場はあったにしても、東工大出のエリートで会社としては変な左遷はしたくない。高野も最大派閥の北大だ。お前はオレと同じ高専だ。煩いってことになれば、いつでも簡単に飛ばせる」

そんなこと改めて言われなくてもわかっている。だから河野と高野を表にだして、こっちは裏にまわって人心操作に腐心してきた。ただ、今回はシンパ候補を漁るには絶好の機会で、裏は裏であちこちに声をかけて歩いていた。青年婦人部の幹部といったところで、大勢は若い不満分子の集まりに過ぎない。労働歌「がんばろう」の後になんの躊躇いもなく「同期の桜」を歌う連中で、とてもじゃないが腹を割ってという相手ではない。若い組合員のなかには、社会問題も気にして労働者としての意識もしっかりしていて、そんな指導部にはついていけないと思っている人たちも多い。今回の選挙は、その人たちにこういう選択肢もあるんだということを知ってもらう絶好の機会で、裏にまわってはいても動かざるを得ない。それを見て、労組の役員と跳ねっ返りの青年婦人部の幹部が騒ぎ出しているのはわかっていた。
さしもの風戸さんも騒ぎを抑えきれないで、ことがこれ以上大きくならないようにと忠告してくれた。

「ちょっと話しは変わるが、お前、高橋になんか入れ知恵したんじゃないか」
「あいつが、唐突にというのか、前後の脈絡なしで俺の責任じゃないって言い出したんだが、お前なんか知ってんだろう。あの馬鹿が、責任問題なんてことを考えられるわけがない」
「おい、藤澤、聞いてんのか。お前の入れ知恵じゃないのか」
そういわれたところで、そうですよなんて言えっこないじゃないか。
「風戸さん、ちょっと常識で考えてくださいよ。オレがどうやって高橋さんに入れ知恵できんですか。できっこないじゃないですか。高橋さん、朝駅から歩いているときに挨拶しても、嫌な顔をするだけで、おはようの一言もないですよ」

「まあ、いい。なんでもいいが、あまり動くな。選挙の結果はでてる。そんな結果、どうだってかまいやしない。また来年もあるし再来年もある。問題はお前だ。お前がいなくなったら片岡たちは困る。でもそれ以上に困るのはオレなんだ。わかってんだろうが、この馬鹿野郎が、お前、心配してんだぞ」
2019/5/26