金石範からラノベに転がっちゃった(改版1)

セミナーの後の懇親会で知り合いから聞くまで、済州島の「四・三事件」ついては何も知らなかった。みんなの話の腰を折るようなことのないようにと思ったのだろう、世間話に混ぜ込んで、わざと軽く触れただけのような口ぶりだった。そのせいもあってか、おぼろげな記憶として残っているだけだった。

朝鮮大学校のセミナーになんどか行ったからでもないだろうが、一年ちかくも経ってぽかっと浮かんできた。いい機会だし、一冊二冊読んでおこうかと、Webでこれと思うもの小当たりをつけて、豊島区の図書館のサイトで検索した。どうせ読むならしっかりしたものをという気持ちから、『金石範(なぜ書つづけてきたか)+金時鐘(なぜ沈黙してきたか) 』と思ったが、蔵書になかった。
金石範も金時鐘もはじめてみる名前でWebに載っていたこと意外はなにも知らない。図書館に購入していただけないかと申請書をだしたら、新宿区の図書館から融通をつけてくれた。

いい年して、わからないことばかりで、あれこれ思いついては図書館で借りてきて読んでいる。できるだけわかりやすい文章にしなければと、若いときには手もださなかった小説も読み始めた。還暦もとおにすぎて残された時間も少ない。限られた時間のなかで得るものを得なければという気持ちから、評価の定まった歴史上の作品から読んでいった。こんなことをいうと叱られそうだが、なにもそこまで深刻(ぶる)こともないんじゃないかと思うことも小説も多い。ちょっと疲れて、中間小説やその延長線にあるものに軽く片足入れてはみたが、今をときめく流行作家に手を出す体力などあるわけもない。

図書館が融通をつけてくれた本、想像をはるかに超えて耐えきれないほど重かった。あまりの内容に読んでいて涙はでてくるし、苦しくなって読み続けられなかった。ちょっと時間を置いて、読んでは止めて、また読んでは止めてを繰り返した。やっとの思いで読みきった。つらかったが、今まで考えたこともなかった、鋭利な刃物で切り取った景色がぽっかり浮かんできたような気がした。むき出しのまま放っておくと怪我をしかねない、自分のなかでのバランスを失いかねないと気にしながらも、ことのついで、どうせなら、もう一歩踏み込んでから後ろに引けばと、『鴉の死』を読み始めた。何ページも進まないうちに止めた。また何ページかで止めてを何度か繰り返したが、怖くて読み続けられなかった。数ページごとにでてくる景色に切り刻まれてミンチにされたような気がした。

二冊の本からの衝撃と怖さから、それまでのように普通の本を手にしても読み進められなくなってしまった。感情の機微や心象風景の凝った描写などとてもじゃないが受けつけられなくなった。しょうがないから、と自分に言い訳をいいながら、開高健なら、志賀直哉まで戻れば、太宰なら荷風なら芥川なら、こういっては失礼だが林芙美子ならと思ったが、どうにもいけない。

書かれている内容をつかめなくても、たとえ文体を拾うだけでもいいじゃないか思って読み始めるのだが続かない。ここはひとつ方向を変えてみようと、加藤周一に戻ってみたが、かつてのようには読めない。ならば山口昌男ではどうかと振ってみたがダメだった。

どれもこれも見えても読めない状態に陥って、こんな手もあったのかと気づいたのが「ラノベ」だった。最初Webで「ラノベ」なる言葉を見たときは、いったい何をいっているのか見当もつかなかった。そこはGoogle先生、ライトノベルを略してラノベ。 中にはネットで好評だったからと紙の書籍にするものもあるが、それまでのこともない、しばし誤字脱字や漢字変換の間違いなど気にもしない、著者の限られた社会経験と日常逃避に近い視点から書かれているものが多い。それでも疲れたときの娯楽を目的としているのならネットに十分なものがいくらでもある。

巷の普通の人たちが、日々の生活のなかでささやかな潤いを求めてのものだろう。社会経済でもなければ、科学技術も関係ない。知識を求めて読むようなものでもない。それは、エンターテイメントとでもいうのか、何があってもヒーローやヒロインの活躍(?)でハッピーエンドで終わる。安心してみていられるアメリカ映画に似ている。仕事であれ、なんであれ、疲れる世の中、誰も彼もいつもいつも苦虫つぶしたような顔をしていてもしょうがない。所詮娯楽、一時の現実逃避といわれるだろうが、巷の人々に、生活の張りをもたせてくれる、軽い覚せい剤のようなものかもしれない。

涙しながらラノベのラブコメ(ラブコメディ=恋愛喜劇小説)を読んでいて、若いときに、といっても四十は過ぎていたが、読んだショーペンハウエルの『読書について』を思い出した。勤めていた米系企業で、新規市場の開拓をすすめなければならない立場になって、限られた時間のうちにできる限りの知識を吸収しなければと、十五分という時間の隙間まで気にして本と資料を読み漁っていた。そんなバタバタを見かねたのだろう、古本屋をやっていた友人が、棚から岩波文庫の小さな本をもってきた。
読み始めて腹が立ってきた。細かなことは覚えていないが、書いてあったのは、一言でいってしまえば、「本は読むな。読めば人の考えに、意見に洗脳される」だった。なんにしても知ることから始まる。知らなければ、なんの考えようもないじゃないかと思っていたし、今もそれは変わらない。

仕事でも私生活でも、こうしてみよう、こうしなきゃと、三、四年もやっていると、このままでは、これ以上前には進めない限界がおぼろげにしても見えてくる。どこかで一転突破をと模索しているときに「四・三事件」だった。いつまでもラノベの世界にいるわけにもいかない。もしやと思って、もう一度『読書について』を読んでみるかと図書館の蔵書を探した。読んで腹が立った本をまた読むのか? また同じように腹が立つだけじゃないかと思うと、気が乗らない。豊島区の図書館の蔵書に渡部昇一編訳の比較的新しい本があった。元は同じ本でも著者によって違う視点もあるかもしれないしと借りてきた。

仕事でつきあたった人たちのなかには読書家(勉強家といいなおしてもいい)と呼べる人はいなかった。なかには「わしゃあ、本なんか読みゃせんからのう」と公言するのさえいた。そんな社会にはショーペンハウエルが見た景色がなかったということ、そしてこの数年間に片足をつっこんだ世界には彼が問題にした景色が、その景色を作り上げている社会集団がいた。まじめな勉強家たちなのだろう。なんにしても、ヨーロッパ(まれにアメリカ)の学者や研究者の引用からの話がでてくる。なんという人たちなのだろうと思っていた。そこに、渡部正昇一のショ―ペンハウエル、現状を抜けるヒントらしき、まだ整理がつかないもののしっかり重さを感じるものがあった。

巷の普通の人たちが、笑いながら、時には涙しながら読んで、元気になるラブコメ。難しい専門用語を駆使した論文調の読み物に疲れたときの息抜きにはちょうどいい。軽い気持ちで読んではいても、あれこれ考えさせられることもあるし、こう言っては失礼になりかねないが、思わぬところで思わぬことに気がつかされることもある。
社会経済でも人権問題でも憲法九条でも原発でも沖縄でも……、できることなら、いつの日にか普通の人たちが普通に肩が凝ることもなく読んでという文章で書けたらと思っている。
『読書について』の助けを借りて、ラノベから抜け出れそうだ。抜け出たあかつきには、一皮剥けていれば……。まあ、個人の勝手な思いでしかないが。
2019/2/24