組織の、自分のマイペース(改版1)

転職するたびに、仕事で直接、間接に関係のある人たちの仕事の仕方に合わせようがなくて、どうしたものかと考え込まざるをえなかった。行く先々で散々考えてはみたが、解決策などあろうはずもなく、こっちはビジネス傭兵だと割り切るしかなかった。しなければならないことをしなければ、ビジネス傭兵として存在のしようがない。極端にいえば、周りを引きずってでも、雇われた目的を達成するためにことを前にすすめた。

関係する人たちの仕事ぶりは、表面上に見える仕事の仕方である以上に、その人たち個々人の生き方や社会観を反映していた。個人の私生活は感知することではないが、仕事で関係することになると、知らないではすまされないことがある。それは一言で言えば、Working ethics問題になる。
なんでここで日本語じゃなくて、英語なのか。日本語でしかるべきとは思うのだが、Working ethicsならピンと来るのに、その日本語訳なのか「労働倫理」や「勤労意欲」といわれると、どうも、わかったような、わからないような話になってしまう。
Working ethicsの根底には日常の良識や道徳感がある。「労働倫理」や「勤労意欲」には、上から押し付けられた「道徳」のようなすえた臭いだけでなく、羽織袴を着せられた余所行きの響きさえある。そこからは、体育会系の精神主義に堕した俗にいう「やる気」云々の話にはなっても、良識や道徳感から必然として生まれるWorking Ethicsにはならない。
「労働倫理」や「勤労意欲」や「やる気」からは、管理の対象であろうはずのない人を、あたかも物のように管理するという社会観から作られた上意下達の組織と管理職という視点しかみえてこない。

人間誰も認めてもらいたいという欲求があるが、認めてもらえる仕事をしえる環境にもなければ、いくらなにをしたところで認めてもらえる可能性がないと思ったら、「やる気」もうせる。そもそも「やる気」云々を言っている組織や上司も「やる気」は掛け声だけだったら、「やる気」など、誰が何を言おうが、ただの掛け声以上のものにはならない。Working ethicsに相当する志向や文化なぞ望むべくもない。

そんなところでは何を言ったところで、組織をあげてのマイペースに堕する。何があろうが時々の上っ面の評価さえ得られればいいじゃないかと、誰も一所懸命働こうなどとは思わない。組織のトップから中間管理職、そして末端の実務担当者まで、自分の、自分たちの都合で、問題にならないかぎりという範疇におさまっているのなら、抜けるだけ手を抜いて、楽をしてという仕事にしかならない。それはもう実務担当者の「やる気」がどうのというのを超えて、企業なり、さらにその企業がおかれている社会環境なりが、人が本来もっている労働を通して社会的に認められたいという欲求を扼殺(やくさつ)していることに他ならない。

それでも人が組織が何をどう思おうが、自分に恥じることのない仕事をと思えば、それなりに自らの意思で一所懸命に働くことになる。ところがこういう人が「やる気」の起きようのない組織で多少なりとも「やる気」を出すとどうなるか。同僚から上司、そのまた上の、極端に言えば組織のありように疑問符を突きつけることになりかねない。
映画『ダイハード2』でロスアンジェルスの警官ジョン・マクレーンがワシントン・ダレス国際空港で警察の仕事をして、地元警察署長に、「いちゃあいけないところに、いけないときに、いちゃいけないヤツがいる」と怒鳴られるのと似たような状況になる。 偏見だとしかられかなけないが、中央、地方に限らず官僚組織にも似たようなことがいえると思っている。

マイペースという和製英語があるが、そこには両極端な二つの意味がある。まず第一に、どんなに腐った組織であろうが、なにがなんでもそりゃないだろうという状況におかれても、自分のありように矜持をもって、なににしても一所懸命マイペースでことに当たる人がいる。もう一方で、ここまではなかなかないだろうという「遣り甲斐」のある状況におかれても、個人の安逸を優先して、仕事では抜ける限りの手を抜く人もいる。いいの悪いのの話ではなく、程度の違いはあったにしても、環境も個人の志向もこの両極端のどこかにある。

適材適所などという組織になかでの話ではなく、社会一般の話として、自分が所属する組織、同僚、上司……、そして自分はどのあたりにいるのか、いたいのか、いざるをえないのか、あるいはいたいようにいるためには、あらざるをえないようにあるためには、自分に何を求めて、組織に何を求めざるをえないのかぐらいまでは考えてしかるべきだろう。一社会人としての自己責任の一端がここから始まる。
2019/4/7