人の微笑みを誘う微笑み(改版1)

人ごみのなかモナリザをみた。クリスマスの観光シーズンだからだろうが、まるで東京の博物館のように混んでいた。人ごみに混じって一歩ずつ半歩ずつ近づいていってはみたものの、人ごみに疲れて、もうここでいいやというところでやめた。ちょっと距離はあったが、微笑はしっかり見た。
印刷物で見るのと、実物を見るのでは感動というほどのものでもないにしてもちょっと違う。違いはすれど、どうしたところで陰影など生まれようのない(平面的な)絵。ミロのビーナスやサモトラケのニケのような彫刻を目の前にしての違いほどのものはない。

名画というのはいくらもあるし、たとえ名のない絵でも人によっては名画以上の感動があるかもしれない。正直にいうと、モナリザのどこがいいのかわからない。文化的な生活からは遠い世界で生きてきたもの、いまさらなんの格好をつける気もない。目の前にしても、ああモナリザですかというほどの気持ちしかわいてこなかった。ただ、あの薄ら笑いのような微笑、そう呼んでいいのかもはっきりしないぼんやりとした表情だけが他にはないものだと思っている。

それは普通にいう笑いとは違う。だれがどうみようと、見た人が肯定的にならざるを得ない。おもわず自分の負の部分をそっと隠してしまいたくなるというのか、させる微笑。そして見た人の誰もが無意識のうちに同じように微笑みたくなってしまう。どんな邪気があろうとも微笑まされてしまう。

ダビンチが何をもくろんだのか知らないし、知りたいとも思わない。もう数世紀にわって解説されつくした微笑だろうが、そんな解説など調べる気もならない。調べることに意味や価値を許さない微笑みにみえた。
微笑みの後ろになにがあるのかわからない。とてつもなくドロドロとしたものがあるのかもしれない。それでも、それを想像することすら許さない。老獪な外交官の、あるいは海千山千の詐欺師が浮かべる微笑と同類のものとは思わせない無垢な微笑みに、観てしまった、これでひと段落ついたなという気になった。

とんでもない仕事をしてきたわけではない。それこそ出たとこ勝負のビジネス傭兵。こんなことやってられるか、捨石じゃあるまいしという戦場で身内や後ろから撃たれるなんてのも日常茶飯事、なにがなんでもそりゃないだろうというのをかいくぐってきた。首まで泥沼につかって、討ち死にだけはと匍匐前進で勝ちを探して走り回ってきた。そんなことをしていれば、どうしても苦虫つぶした顔になりかねない。それをなんとか平静を装って、努めて穏やかに、なんとか笑顔をと思ってきた。どうしようもないところから抜け出て、多少なりとも勝ち感じたときにでてしまうニタリ顔はあったろうが、なにがあるとも思えない微笑ができるような器じゃない。たとえつくった微笑みでもいいじゃないか、それが上っ面の、見ようによっては引きつった笑顔のようだったにしても、微笑をと心がけてきた。

印刷物のモナリザを見るたびに、この微笑はいったいなんなんだ、どこからこんな無垢な、裏のありそうもないというか、ありえない表情が生まれるのか、不思議でならなかった。もしかしたら知的な障害でもあるのかもしれないと、そう考えればと思ったこともある。

つくりものに過ぎないにしてもモナリザ以上の微笑みがないわけじゃない。接待やなんやらで銀座辺りをうろちょろしてれば、モナリザなんかよりもっと綺麗な、そして綺麗に着飾った人たちの明るい微笑みなんてのはいくらでも拝める。ただその微笑を見た人がモナリザからもらった、自分も似たような微笑をと思うことはないだろう。ここにモナリザの微笑みの怖さがある。

乾いたとでもいうのか、取ってつけた中身がない笑いほど、本人にとっても、中身があるかと思って見る人にとっても不幸な笑いはない。観察眼がいたらないから、モナリザの微笑みを他にはないものと思い込んでいるのかもしれないと思わないわけではないが、それはそれでいいじゃないか。見る人が同じような微笑をと思える微笑、あるところにはあるのだろうが、そんな生活はしたこともなければ、これからもないだろう。一度は観なければと思っていた微笑から微笑みをもらったような、なんとかしてそんな微笑を日常にできないかと思っている。

そうは思うし、思っていたいが、もし戦場で身内に背中から撃たれたら……。そんなときでも微笑んでいられる人になれたらと思わないこともないが、ないがまでで止めておいたほういいだろうし、もし間違ってなれたとしたら、そんな微笑み、薄気味悪いだけじゃないかと思う。そんな社会のそんな人間だということでしかないということなのだろうが、それはそれでいいじゃないかって。もう棺おけの蓋の影がちらつく歳。そうでも思わなきゃ、やってられない。
2019/4/14