培ったものを剥いでいったら(改版1)

加藤周一対談集『語りおくこといくつか』に収録されている丸山眞男との対談を再読した。読まなければならないものが多いから、再読することはめったにない。数年前には、「うん、そうだよな、そう考えればすっきりする」と納得して読み流してしまったのが、今頃になって、三十年以上も前に同僚の女性に言われた言葉と共鳴でもしたかのようで気になってしょうがない。

高専を出て就職した会社で、御用ちょうちんを下げた労組とその青年婦人部のはねっかえりに呆れて、社会と経済を勉強しなければと通勤電車のなかで、寮の部屋であれこれ本を読んで考えていた。考えたことを口にだしてはみても、それが果たして自分の考えなのか、それとも本から得た知識を基に自分なりの装飾をほどこしたものに過ぎないのかはっきりしない。 それを古本屋をやっていた同級生から「お前は自分に自信がないから、理論武装しようとしているだけだ」と喝破された。その通りだと思いながらも、その通りだけじゃないだろう、でもどこまでが知識として得たもので、それが素の自分のどことどう絡み合って、どこからが自分の考えなのかがわからない。

右傾化した労組を左旋回させようと動き回っていたとき、友だち以上、彼女以下の同僚に言われた。
「自信満々でこねてる理屈も、(しばし棘をかくそうと)へりくだった言い方も、どっちも作り物で、普段の藤澤さん本人とは違う」そう思われたら思われたでかまいやしない。当面の目的は左旋回への同調者を一人でも多く作り出すことだと思っていた。

「理論武装」も「つくりもの」も言っていることは同じで、もともとの自分、素の自分の上にのった教育されて経験して勉強して体得した知識や考えをさしている。この個人でいえば後天的に得たものを剥ぎ取った自分と丸山真男が「古層」あるいは「持続低音」と言っている素の日本は同じことを言っているように思えてならい。

ちょっと長いが対談の一部を引用しておく。
「日本の歴史認識です。『日本の』というときは、その一番古い、外国のイデオロギーである儒教とか仏教とかが入ってくる前の、日本固有の世界観ですね。それを追求すると、例の『古層』という考えがでてきます。(「歴史の意識の「古層」」『丸山集』)。儒教や仏教が非常な勢いで日本にはいってきたのは六世紀からですね。世界観の原則がのこっているのではないかということです。それを『古層』という言葉で言われたわけです。『古層』の方は変わらずにずっと続いていて、外部からの思想が時代と共に変わっていく表層をつくるという考え方ですね。 それで『古層』は、何も変わらないという考えだったのが、後には、上の層に新しいメロディーが入ってくると、下が反応して、上と下との間に相互関係があるという考え方になりました。『古層』をふまえながら、上の部分――儒教の影響した部分、仏教の影響した部分が発展するという考え方。それは純粋の仏教じゃなくて、仏教が『古層』の影響を受けたかたちが上に出てくる。『古層』はただ変わらないのではなく、やはり、仏教の影響を受けながら、変わりながら、続いていいくんだという考え方に変わってきたわけです」

日本(人や文化)とはいったいなんなのかを考えるひとつの手段として、中国や朝鮮半島から伝わってきた儒教や仏教の影響をそぎ落としてゆけば、外来の影響を受ける前の日本がみえてくるのではないかという着眼点には納得する。いくらそぎ落としても、影響を受けてしまった痕跡はなくならないが、それでも素の日本を考え得る手段としては妙手だと思う。

では、その視点の個人に向けたらどうなるのか。文化も歴史も社会集団としてあるだけではなく、最終的にはその社会集団を形成する個人が、そして個人と個人の係わり合いが紡ぎだすもので、社会集団の視点にとどまって、個人にまで踏み込まないのは、重要な点を見逃しているようにしかみえない。加藤周一と丸山眞男がそんな素人の思いつきからの杞憂などわかりきっての話だろう。もしかしたら、論理がごちゃごちゃするのを嫌って、あえて踏み込むことを避けたのではないか。

同じ手法を日本や社会組織や文化の枠を超えて、個人に当てはめたらどうなるのか。儒教や仏教に限らず後天的に与えられた影響ということでは、家庭教育から学校教育、そして直接間接の専門家としての教育や学習にその先にある日常生活における経験まで入ってしまう。日常の経験を通して培った知識や情報もあれば、社会的な地位もある。家庭内から一歩社会にでてみれば、ほとんど全ての人が後天的に得たものに基づいて社会人として生活している。日本を知るための手段と同じように、その社会人としてのありようから後天的なものを引きはがしていたったら、その人の素のありようが見えるのか。どう考えても、ことはそう簡単じゃない。外部からの影響を省いた裸の素の人を見るには、日本の原型をみようとするのと何が違うのか。

人は社会生活をおくる生物だという理解に大きな間違いがあるとは思えない。では社会生活をおくるための基礎になるもの、その基礎の上に培われた専門知識、その専門知識を駆使することで得た専門的、社会的経験から体得した知恵のようなものをもってして社会生活を営んでいる。もし、後天的なものを一つひとつ剥ぎ取っていったら、人として何が残るのか。まさか「三つ子の魂……」という話でもないだろうし、らっきょうではないが、皮と思って剥いでいったら、何も残らなかったという話であろうはずがない。ところが、社会生活をおくる人としての個人を見れば見るほど、ほとんどなにも残らないほど人は外部からの影響とその影響を活用して生きている。

人が他人を評価することで社会生活が成り立っている。その社会生活は、外部からの影響から生まれた衣のようなものと衣のようなものの関係から生まれている。では、素の人(自分)とはいったいなんなのか。つらつら考えてはいるが、いつまで経っても答えに結びつく糸口はみつかりそうもない。
2019/6/9